Rainy Day

「おっと…降ってたのか…」
 エレベーターから降り立った火村の目に映ったエントランスのガラスに幾筋もの水の流れ。
 そういえば天気予報がそんな事を言っていた気がする。
 このままつっきってしまう手もあるが…。
 かなりの雨。

 木造の下宿ならすぐに音と匂いでわかるけれど、鉄筋に囲まれたマンションの一室では、雨の気配すら感じられなかった。
 いや…。
 単に気づかなかっただけ…なのかもしれない。
 あの甘い吐息の零れる空間では───
 何もかも…埋もれてしまって。
 
 こめかみに残したキスに『気ぃつけてな…』とかすれた声を返したアリスを置いて部屋を出るのは忍びがたかったけれど、明日の予定に間に合うように戻るにはこれが限界。
 後ろ髪をひかれる思いで、閉じた扉。

 …さてどうしたものか。
 ああ見えて人一倍心配性な恋人だ。
 何かの弾みで目を覚ませばきっと気に病む事だろう。
 送るから居て…と引き止めたアリスに応じなかったのは、原稿で疲れきったアリスに休んで欲しかったから。何も気にしないで、心も身体もゆったりと休んで欲しいと望んだから。
 心配の種は残したくはない。
「‥間に合うな‥」
 しばし雨を見つめた火村は、ちらりと腕時計に目をやると再びエレベーターに乗り込んだ。

 カチャ…
 おそらく眠っているであろうアリスを起こしたくなかったので、慎重に合鍵を差し込む。
「ん? あれ?」
 回そうとして感じた違和感。
「開いてる?」
 そんなはずはない。さっきこの手でしっかり閉めたのに。
 訝しげに、それでも出来るだけ音を立てずに中に入る。
 暗い室内。でも、かって知ったるこの部屋だ。目を瞑ってたって歩ける。

 静かに…そっと…近づくベッドサイド。
「アリス?」
 伸ばした指先。触れるのは柔らかな布だけ。
 抜け出してそう時間は経っていないらしい。まだ残るアリスのぬくもりがそこにはあるから。
 トイレにもバスルームにも電気がついていなかったから、ここだと思ったのに…。
 念のため、ベランダも覗いてみる。
 さして見えもしないのに、遥か7階から手を振る姿をふと思い出して。でも、隙間はあれど鍵はしっかりかかったまま。
 もしかして‥。
 玄関に戻って電気を点ける。
 暗がりでは気付かなかったけれど、やっぱり足りない。見慣れた靴の一セット。
 念のため、がらっと開けてみた引き戸の中も、予想どおり。
「‥入違い‥だな」
 2基あるエレベーターの中。
───傘を取りにいこう
───傘を届けよう
 偶然の気持ちが重なって、きっとどこかですれ違った。

 冷えたフローリングに火村はしゃがみこむ。
「まいったな‥」
 胸ポケットから引っ張りだしたキャメルをくわえる。
 あんな疲れた身体で、追ってこなくていいのに。
 指一本上げるのさえ億劫なほどだったくせに。
 そんなに無理をさせる気などなかったのに。
 ふぅ‥と吐き出す煙。
「‥ガマンきかないよな‥」
 あんな艶っぽい目で誘われてしまったら、止まるわけがない。
「ま、俺のせいだけじゃないか‥」

 呼び出したのもアリスなら、せがんだのもアリスだったから。 


○●○●○

 昼休みも終わろうかという時間にかかってきた一本の電話。
『やっと終わったんやけど‥。時間ある?』と、切り出したアリスの声が訴える。
「来て‥。逢いたいねん。わがままやってわかってるけど…。何時でもいいから。顔を見るだけでいいから」
 なおも続く言葉を遮って『行くよ』と答えたのは、勿論同じ想いだったからだ。 
『けりがついたらすぐ連絡するから…』の言葉を最後に受話器越しに聞いてから、三週間が過ぎていた。
 老舗ミステリー誌からの書き下ろし依頼というので、かなり気合が入っていた分、根をつめていたんだろう。
 疲労の度合いが声だけで十分感じ取れた。
 眠ったほうがいいのに、とも思いながらもあんな切ない声で呼び出されて、応えないわけにはいかない。
 一刻も早く飛び出たかったが、午後の講義が詰まっていた。それでも逸る心のせいか、無駄話一切なしに淡々とすすめて、早めに講義を終えると駅へと急いだ。
 間が悪いことに、車は車検。
 明日から教授の御供で一週間の不在が決まっていたから代車も借りていなかった。朝一の飛行機に間に合わせるよう、もう一人の同行人の助手が車で拾ってくれる事になっている。
 何時間…傍に居られるだろう。
 学会・レセプション・交流会がぎっしり詰まった一週間。『助教授としての顔見せになるから、がんばりなさい』なんて教授からの激励まで受けている。まとめておかなければならない仕事もまだ少し残っている。終電に間に合う時間までは、どう考えても限られた数時間しかない。
 それでも。
 顔を見れるだけでいい。
 その存在を確かめられるだけで…。
 これだけ大勢の人間が居る中で、ただ一人だけ。逢いたい人の元へと向かう。そんな時間も、なかなか乙なもの‥。
 慣れない満員電車に揺られながら、ふとそんな事を火村はぼんやりと考えていた。

 辿りついた部屋。
 アリスは眠っていた。待ちくたびれたのか、こたつに潜り込んで。
 その寝顔を覗き込み、そっと名前を呟いてみても起きる気配もない。
「全く‥疲れた顔して。どんな時間過ごしてたんだ?」
 ふわりと髪に声を落とすと、火村はキッチンへとむかう。
「おやおや」
 かなり切羽詰まっていた様子がそこからもうかがえた。
 お皿やコーヒーカップが洗い場に投げ出されたまま。ラーメンや焼きそばの容器が散乱したごみ箱に山積み。一人暮らし歴が長いアリスは、普段は結構まめに片付けるし、インスタントものも極力避けるようにしている。それがこの有様なのだから、よほど追い詰められて時間と格闘したんだろう。
「がんばったんだな、アリス」
 ふりむいて、くすり。
 本当に、原稿を出してすぐに電話をかけてくれたのだろう。片付ける気力すらないほど疲れたアリスが、何よりも先に求めたのが自分だという事実がとても愛しくて。
「栄養つけなきゃな」
 ご機嫌な声で呟くと、火村は手際よく片付けを始めた。

 有り合わせで作った夕食をテーブルへと並べていると、まるで匂いに誘われたようにのそのそとアリスは起き出してきた。
「ひむら?」
 確認するように呼ばれる。
「おはよう。起きれるか?」
 ごしごしと目をこすっている姿がなんだか幼く見える。
「うん…、あれっ…いつ、来てたん?」
「7時頃かな。一時間ほど前だから。ん? どうした?」
 不思議そうにきょろきょろ‥と部屋を見回しているアリスの仕草を見咎めると『夜の‥やんな?』と尋ねられた。首肯くと、ほっとしたようにアリスは息をついた。
「そっか。よかった」
「なんで?」
「だって、朝やったら‥火村、もう帰らなあかんもん」
 朝でなくても長居は出来ないのだが、言い出しかねて。
「‥アリス」
 そんな言葉を囁いてくれる唇にそっと近づく。
「ごめんな、呼び出したりして」
「いや、逢いたかった。俺も」
 すっと回した腕の中。
「ん‥すごく」
 微かな声を唇の端で聞いた。
 何もかもが暖かい。
 二人だから伝え合える想いを、重ねあう口づけ。
 しばし、共に在る実感に酔いしれて 逢えなかった時間など存在しなかったような錯覚に捕らわれる。
 時の流れなどそこではなくなってしまう。
 ただ、二人そこに居る…ということが全てで。
 互いを存分に確かめあうための空間に浮遊する。
 やがて…。
「よかった…」
 小さな隙間に零れた声。
「なにが?」
「火村も同じくらい飢えててくれて」
 表情を見なくたって、それが何への飢えなのかは聞かなくても勿論わかる。
「エネルギー切れでへろへろになってたもん。俺」
 ごそごそと腕から抜け出して念を押すように真剣に見つめながら言ってのけてくれるからたまらない。
「ばか。あんまり喜ばすなよ。襲っちまうぞ…今すぐに…」
「いいよ」
 強がった口調でアリスは言ってくれる。
 多分、それは本音だろうけど。でも、今は先に栄養が必要なはず。
「駄目。嘘だよ。ちゃんと食べないと襲ってやらない。食べ頃になったら食ってやる」
 ぐっとこらえた言葉に、アリスは感心したように呟いた。
「すごい! 理性の人になってるやん、火村…しばらく逢わんまに。どうしたん?」
 なんとも、ひどい言われようだ。とても褒めてるようには思えない。
「どうしたんって…。人を何だと思ってるんだ、全く。心配してるんだよ、これでも。そのままじゃお前、倒れちまうからな。ずっと傍についてられるならまだしも…」
 苦虫を潰したような顔で、軽くぽんぽんと頭をたたく火村に、アリスはきょとんとした目を向けた。
「え? 帰らなあかんの?」 
 ごめん、と仕方なく明日からの予定を説明していくとみるみるうちに沈んでいく表情。
「そっか…ごめんな。急がしい時に…無理させて…」
 小さくなった声に、予定など無視したくなるけれど。そうもいかない。もし、自分だけの予定ならアリスの前では済し崩しになっている事間違いなしだが、相手のある仕事だ。
「こっちこそ、悪いな…せわしなくって」
 ううん、と首を振ったアリスは無理からの笑みを見せる。
「ん、いい。間に合ったから」
「え?」
「だって。…この上一週間も逢えんかったら、火村欠乏症が悪化して死んでまうとこやもん、俺。ギリギリセーフでエネルギー補充出来たやん」
 そんな甘い言葉をさらりと残して、するりと腕を抜け出すと、アリスの話題は方向転換。
「よし。さ、食べよ。これ‥作ってくれたん?」
「有り合わせだけどな」
「すごい‥よう出来たな‥。何にも入ってへんかったやろ? 冷蔵庫」
「そんな気がしたから野菜は買ってきてたさ。どうせろくなもん、食ってないんだろと思ってさ」
「‥全く、なんでもお見通しなんやな」
「いいから、早く食べようぜ、俺も腹減ったって」
「ん、そうやな。じゃ、遠慮なく、いただきます。あ、おいしい!」
 口一杯ほおばって、にっこりしているアリスにほっとして、火村も箸をつける。
 食べながらも止まらない会話は、逢えなかった3週間のあれこれ…。たわいない話でも同じ空間に二人で居るだけで、充たされていくのがわかる。
 山のような話題と共に胃袋もたっぷりと充たされてから『ごちそうさま』と手をあわせ、『ますます料理、うまくなってない?』なんてアリスは言うけれど。それは二人で食べるから。その隠し味がなければ、どんな料理も味気ないに決まっている。
「満足した?」 
「うん。美味しすぎて、食べすぎた」
 ぱんぱん、とお腹をさすってみせるその笑顔だけで、満腹になれると火村は思ってしまう。
「よかった。じゃ、とっとと片付けて、コーヒーでもいれよう」
 食器を揃えて立ち上がろうとした火村の腕をそっと掴んだアリスの手。
「いらん」
「入らないか?」
 違う、とアリスは小さく首を振る。
「もったいない…時間が…」
「え?」
「…片付けなんて、後でも出来るやん」
 上目遣いに据えられたと向けたその目はさっきまでと違って、圧倒されるほど艶っぽい。
「ちゃんと食べたで…俺」
「だから?」
 その意味するところは勿論理解しているけれど。
「わかってるくせに…」
「聞きたいんだよ。アリスの口から…」
「意地悪やな」
 見つめ合ったのはほんの一瞬…。
───ダイテ…
 それは声になったかどうかはわからなかったのだけど、火村の耳には確かに聞こえた。