‡ 高校三年・冬
終了のベルが鳴り緊張感がふとゆるんだ。
受検表を忘れないようにと試験官が念を押した後、解散が告げられる。途端に起こる喧騒を横目に火村英生は席を立った。
(受検票…か…)
手に取ったその紙には間違いなく自分の写真が貼ってある。そこに書かれた筆跡も勿論、自分のもの。
しかし…。
憶えがないのだ。火村自身には。
一月程前の交通事故。
センターラインを越えて突っ込んできた対向車との衝突で運転席の父は即死。助手席の火村は一命を取り留めたもの意識不明で眠り続け植物人間になるのではと危ぶまれたそうだ。
意識が戻ったのは三週間ほど後。
『天使に会わなきゃ』
突然目を開けて、そう呟いた火村に涙ながらに抱きついたのは祖母。続いて慌ただしく呼ばれた医師や看護婦の姿に病院にいることはわかったけれど、その理由は心当たりもなくまたすぐに眠りについてしまった。
夢と現実を行き来しながらも、徐々に回復していく英生に安堵する一方、夢から覚める度に『天使』を繰りかえすのを聞いて、祖母は孫の気が触れたと思ったらしい。先祖の墓参りすらしない子が『天使』などと連発するものだから…。そのために念入りに検査を重ねた結果、幸いなことに脳に異常は認められなかった。が、唯一の問題は記憶。
全てが全てではないが、所々過去の自分が霞んでしまう場面がある。事故前の数時間は完全に欠落。生存者が居たことが信じられないというほどの大惨事だった現場の事も父の死も全て後から聞いて認識しただけ。結局、医師の判断は『ショックによる軽度の記憶障害』。日常生活には支障がないと退院が許可された時、既に本命の国公立の一次試験は終わった後。手元にある受検表で入試出来る学校はここ、英都大だけになっていた。
しかし…。何故?
自分の記憶にない自分は、英都大学などに願書を出したのだろう。いや、英都大がどうと言うことではなく。何故、京都になど赴く気になったのだろう。
何故? 『天使は?』と何度も尋ねたのだろう‥。
眠っている間。ずっと見ていた夢。
昏々と眠り続ける自分をのぞきこむ影が尋ねる。
『何が望みだ?』と。
「天使に会いたい‥」と答える自分。
声は応じる。
『よかろう。会わせてやろう。お前の天使に‥。
……でも、そのかわりにね…………』
その先は、なんだっただろう?
あの後、何度も何度も再生されるその会話は、必ずそこで途切れてしまう。
『……でも、そのかわりにね…………』
悪戯を思いついたこどものようにその声はクスクスと笑って消えていく。
そのかわりに─────
なんだったんだろう?
何を約束したのだろう?
考えると頭が痛む。キーンと耳鳴りがして締め付けられるような感じ。まるで封印された扉の様。
あの後、何度も思い浮かぶ会話なのに、必ずそこで途切れてしまう。実の所、自分もわからない。
「天使に会いたい」だなんて、一体何をイメージした?
ぼんやりしたまま歩いていた火村は、突然何かにぶつかった。
「おっと‥」
「す‥すいません!」
声の主は、今のはずみで撒き散らした持ち物を拾い集めていた。火村も足元にあった赤本を拾って受験生(おなかま)らしい彼に差し出した。
「これ」
「ありがとう」
顔をあげた彼を見た瞬間、火村の視界が狭くなった。彼だけに照準を合わせたカメラを構えたように他のものがぼやける。
その感覚をどう言えば表せるのか。
懐かしいような?
切ないような?
その名を呼べない事がもどかしいような?
デ・ジャ・ヴ…
「あのー、大丈夫でしたか」
ぼうっとしてしまった火村に彼は困ったように話し掛けている。
「え? あ、あぁ‥」
「よかった。ほんとにすみません」
やわらかい微笑みが火村に注がれる。
「あ、今日、試験やったんですね?」
握り締めていた受検表に気づいて彼は言う。
「いいなぁ。俺、明日なんですよ。お互い受かったらいいですね。じゃ」
軽く会釈して彼が動きだす。
風の去ったあと。ふと、届いた会話。
「まったく、どん臭いんやから。アリスは‥」
その名前が琴線に触れる。
(え‥? アリス‥?)
振り向いた火村の視界に、もうその姿は見付けられなかった。
帰りの新幹線の座席に座り、火村はそっと溜息を零す。
何年ぶりのことだったろう。
幼い頃よく来た母の故郷、京都。十年以上も遠ざかっていたのに、変わらない古都のたたずまい。
以前はこの町が好きだった。祖父母の家に行くのを楽しみにしていた。少し歩けば珍しい寺や神社があって、子供ながらの好奇心をくすぐられたものだ。
だがこの町で母は自分を捨てた。雪の積もった日に母は実家に戻り、立ち寄った神社に自分を置きざりにして姿を消したのだ。
『あら、また降ってきたわ。帽子を買ってくるわね。英ちゃん。ちょっとここで遊んでてくれる』
『うん。いいよ』
いつもと変わらない母の声にうなづき、少年は広い境内に飛び出すと、真っ白な雪で遊び始めた。そんな自分にゴメンネと呟く母の姿に気づきもせず…。
夢中で遊んでいるうちはよかった。が、好きな一人遊びもあまりに長いと飽きてしまう。少しずつ不安な気持ちも出始める。
(おそいな‥。お母さん迷子になったのかな?)
なんて、ありもしない事を思ってみたり。
(お母さんとバスに乗って。7つくらい止まったっけ。あれ? 8かな? で、降りてからどっちに歩いたっけ…。でも…)
祖父母の家に戻るにも年に何度かしか来ない町では下手に動くと迷子になるかも‥など、齢6才の幼稚園児にしては異様に冷静に考えていた憶えがある。
そのうちまた雪がはげしく降りだした。
屋根のある社で膝を抱えて座り込む。
(本当に、どうしよう‥。ポケットの中にあるのは、十円玉の入ったビニールのお財布だけだし…。おじいちゃんの家の電話番号って…教えてもらったけど、えっと…あれ? どうしよう…、お家にかけてもお父さん会社だし…うーん)
そんな心細い火村の前に小さな影。
「どうしたの?」
見上げた火村は驚いた。
(‥天使?)
神社で天使もへったくれもあったもんじゃないとは思うが、事実そう思ったのだから仕方ない。
いつのまに地上に降り立ったのか、真っ白でふわふわでキラキラした天使が自分をのぞきこんでいる。
「きみは?」
「ゆきとあそんでたの‥きれいだから‥」
ふわふわの手袋が新雪をすくうと、あっと言う間に小さな小さな雪だるまが出来上がる。
「はい」
小さな天使の小さな雪だるまがそっと火村の手のひらに置かれた。
「ありがとう」と火村が言うと天使は笑った。
それがあまりに可愛くてびっくりしていると『いっしょに作ろうよ』と誘いかける。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…と、並べられた小さな雪だるまの数が十七になった時、天使は突然手を止めた。
「あ、呼んでる」
振り向くと、少し先の道に赤い傘が見えた。
「もういかなきゃ。ありがとう。楽しかったよ」
「うん」
差し出された手袋ごと握手をする。
「じゃあね」
手を振ってぱたぱたと走り去るその背中に翼なんてなかったけれど。
「バイバイ。天使さん」
階段に消えていくその背に返事の手を振りながら、火村は天使の名前を聞いた。
天使は『アリス』と呼ばれていた。
不思議なことに母の記憶はもう薄くて、その面差しも浮かんでこないのに、あの天使の微笑みは鮮明に蘇ってくる。
(そうか。あの日の天使か)
記憶を彷徨い火村ははっきり思い出していた。
それは自ら封印した記憶だったはず。
母に捨てられた苦い思い出を封じ込めるために、天使の記憶も一緒に閉じこめた防衛本能。クールで冷たいと言われる自分の本当の脆さを表すかの様‥。
どちらもあの雪の日の真実。
何時間か後に現われた祖父に『天使を見たよ』と告げたが本気にはされなかった。
寒さで感覚を失った英生の白昼夢と思われたのだろう。
いや、大人たちは母の失踪で大わらわで英生の言葉など気にもしなかったのかもしれない。
その後の大騒ぎにもかかわらず、母は戻って来なかった。何日か後に父に一通の手紙が届いて以降、誰も母の事を口にしなくなった。以降、何が変わったかというと、生活的には大きな変化はなかったように思う。母代わりは父方の祖母が勤めてくれた。
だが人格形成上では、多大に影響があったのだろう。祈っても願っても母が戻らなかった事で英生は無神論者になっていた。母が別の男と共に逃げたのだと知ってからは女性に対しての不信感が芽生えて、この年でも異性に対してさほど興味が持てないのはそのせいなのかもしれない。
ともあれ、転勤族の父と共に家族三人で転々と移り住み、いつしか疎遠になっていた京都。祖父母共にもう鬼籍に入ったと聞く。
(京都…か)
『お互い受かればいいですね』と告げた彼。
「行かなきゃ」と走り去る天使。
ふと、その姿が重なる。
もう何かが動き出している。そんな気がした。
だから、家に戻った火村は祖母に告げた。
「ばあちゃん。俺、英都に行くよ」
天使に会うために…。
三月。孫の大学への入学手続きを全て終えた祖母は、静かに息を引き取った。
天涯孤独となった火村英生は京都へとむかって旅だった。
祖母の女学生時代の友達だと言う篠宮時絵宅の住所をにぎりしめて。
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