‡ 二回生・秋
「アリス」いつものように名前を呼ぶと、
「あ、火村。早かったやん」
読みかけのページから目をあげて微笑みをくれる。
「教授の都合で少し早めに終わったから
「そうなんか」
普段なら、そのままベンチを跡に歩きだす所なのにアリスは動こうとしない。
「どうした?」
「ごめん、火村。悪いけどあとちょっと待ってくれへん? これ佳境やねん。俺の読みが合ってるかどうか気になる」と差し出されたのは、残りわずかの単行本。火村は返事の変わりにアリスの隣に腰掛けた。
「ありがとう」と言うなり物語の世界に入っていくアリスを静かに見つめながら火村はキャメルの火をつけた。
知り合って5ヵ月。
あの『アリス』が今、ここに居る。
去年の四月。『アリス』が《有栖川有栖》である事はすぐにわかった。
百人を越える一般教養の講義でありながら律儀に出席をとる老教授のおかげで。そんな珍しい名前、滅多に耳にするものではない。思わずざわめきが起こって返事の声を消してしまうものだから、律儀な教授は『有栖川君。有栖川有栖君。欠席ですか? 有栖川有栖君』と何度もその名を連呼してくれた。おかげで最後には真っ赤な顔で『ここにいます』と、立ち上がったアリスは余計に注目の的になっていた。
以来、週に一度のその講義でアリスの姿を見ることが火村の楽しみになった。それ以外の場でもアリスが近くにいる気配は、なんとなくわかった。決して目立つ存在ではない彼なのに。わざわざ探しているわけでもないのに、ふと気づくと視線の中に飛び込んでくるのだ。
彼の周りにはいつも誰かがいた。笑った顔、困った顔、怒った顔。仲間に囲まれて、ころころと変わるその表情を見ていると自然に心が浮き立つ。
一方で、そんな自分に火村はとまどいを憶えていた。全く自分らしくない。大体『天使』なんて居るわけもないのに。どうしてたかが夢に踊らされてこんなとこにいるんだ、と冷静な自分は思う。
でも、実際に目の前でアリスを見てしまうとそんな冷静さなど立ち所に消える。
(今日もアリスは元気そうだな)とか(あれ、何か不機嫌じゃねぇか)等、ほんのちょっとしたことまでも気にして見てしまうのだ。
(どうして? あいつの事ばかり気になる?)
何度も自問自答を繰り返しながら、この感情をどう名付ければよいのか、火村には皆目わからない。今まで、こんなに一人の人間にのめり込んだ事などなかったから。
だから、声もかけずにいた。遠くから見ているだけでこんなに影響されるのに、近付いてしまったら自分を見失いそうな気がして。
アリスにとって特別なものがない間はそれでよかった。誰に対しても公平で、誰かだけを見つめているわけじゃないアリスを見ていることで満足していたから。
不安になったのは、二回生になってからだ。
理由は単純。アリスが綺麗になったから。
それは他の誰にもわからない微妙な変化だったろう。アリス本人もわかっていなかったかも知れない。けれど火村は気づいた。アリスが恋をしている、と。普通の恋愛ならば、おそらく見守るだけだったろうに。その相手が相手だったから。
(どうして…その男に恋をする? そんな切ない目であいつを見ている? いつもの笑顔はどこに行った?)
そして、アリスの目は、同時に火村自身の思いを悟らせた。
(つまりは、ずっと恋をしてきたってことか‥この俺が‥)
アリスが彼を見つめる目は自分がアリスを見つめる視線と同じだったから。
(‥それで一体どうしたいんだ? 火村英生?)
「うっわー。やられた」
突然、アリスからこぼれた驚きの言葉に思わず
現実に引き戻されると、隣でアリスが本毎、頭を抱え込んでいる。
「‥どうした?」
「すごすぎー。そんなんサギや‥って思わすほど見事なトリック‥。あぁ、全く。自分の平凡が嫌になってまうわ」
「と、言いながら、いつかはあっと驚く作品を世に送り出すんだろ。未来の作家どの」
立ち上がりながらの火村に『からかうな‥』とアリスが怒った顔を見せる。その顔もなかなかいい、と火村は秘かに思う。
「本気だよ。言ってるだろ。俺はお前の作品を見たいんだよ」
その本を取り上げ、アリスに差出しながら火村はさらりと言う。アリスは推理小説作家志望だった。始めて話したきっかけもアリスが講義中に内職していた作品だったのだ。
「‥そうやったな。うん。がんばるわ」
すぐに笑顔にもどってアリスも立ち上がる。
「さーて、古本市行こか? それとも昼にする?俺は朝遅かったからどっちでもええけど」
「珍しいな。アリスが食物を後回しとは‥」
「なんや、その言い方。俺ってそんなに食い意地はってるか」
「違うのか‥」
笑いながらたわいのない会話を続ける。それはとてもささやかな幸せ。
でも、いつまでこのバランスを保っていられるだろうか‥と、火村は思う。
結局、半年前。自分の気持ちを理解した後、考えても答えは出ず、気がついたら話かけていた。
人懐こい彼のこと。すぐに友達の和に加えてくれた。他の諸々の友達と同格の友人の一人に。たまたま犯罪に興味を持っている社会学部の変り者をミステリーを愛するアリスはユニークな存在と受けとめたのかもしれない。学部の違う毛色の変わった友人というのがアリスの中での火村のポジションだったのだろう。
始めは友人の輪の中に紹介していたアリスだが、火村があまり人に交じるのが好きでもないことに気づいてからは無理に他人の居る場に誘うことはなくなった。代りにどちらからともなく気がつけば連絡をして何かを口実に会っている。
でも、自分には特別なその時間もアリスには違うのだろう。自分は何よりアリスを優先させてもアリスは違う。サークルの集まりがある日は、どんな誘いにも乗ってはこない。
(あの男のせいだろうか‥)
そう思うと平静ではいられなくなる。
その微笑みを自分だけのものにしてしまいたい、と今まで誰にも感じたことのない強烈な独占欲が火村を支配する。大勢の中の一人になりたかったわけじゃない。
それでは自分が壊れてしまう‥。
本気で好きになったら全てが欲しくなるのだとアリスを見つめ続けてわかった。たとえ、アリスから獲られる思いが《友情》であろうと自分はアリスを誰かと共有する事など出来ない…なんて、エゴの固まりのようなこの思い。
「どっち行くんやった? 火村? おい、火村」
交差点でアリスがコートをひっぱっている。
「え?」
「全く〜。君、最近、時々トリップしてへんか?むっちゃ危ない奴やなぁ。で、どっち行くん?」
「あぁ、直進」
「OKって‥あ〜ぁ、信号変わってもうたやんか」
「すまん」
「別に時間あるからいいけど。どうかしたんか?火村。こないだ電話の時も空返事しとったし。何かあったんか?」
「いや。別に‥」
「ホンマかぁ? 悩みがあったら相談にのるから言うてな」
いつもまっすぐなその瞳。こういうのをきっと汚れをしらないって言うんだろう。その輝きを曇らせたくないと思うから、笑ってごまかす。
「悩みなんてないよ。ちょっと遅くまで本を読みふけってたからだろう」
「へぇ。火村を夢中にさせるんて、どんな本?」
とっさに出た言い訳に興味を持ったらしいアリスに話をあわせる。是非読んでみたいという言葉からどんどんと発展して古書市に寄った後でアリスが下宿まで取りに来ることで話がついた。
「しかし、ここからまだだいぶあるぞ」
今日の目的が知恩寺境内での古書市だったので、バスに乗るのも中途半端な距離だと大学からぶらぶらと歩いていたのだ。京都に通いながらも京都を見たことがないというアリスの観光をかねて。
『電車の広告で書いてあったけど、君のとこの近くやろ。ついでにその辺の案内してくれへん? 俺京都の学校行ってるけど京都をゆっくり歩いたことないねん』
自分以外にはあまり友達らしき存在がない変り者への誘い文句なのだろうと気づいた火村は『あてになるガイドブックでも持って来い』と苦笑しつつその誘いに乗った。四日前の電話での出来事だ。
本当に火村はこの町を知らなかった。京都に来てから知ったのは、大学と下宿の往復の道。他は生活必需品を揃えるための店と本屋や古本屋と煙草屋ぐらいで。下宿から歩いて何分かで行ける銀閣寺や、学校のすぐ横にある御所や祖国寺といった名所旧跡さえ、興味がなかった。そんなわけだから土地勘に欠けることこのうえなく、いつもはバスで通る英都大からここまででも歩けば結構な距離だと今日初めてわかったほどだった。
「でも、ここから銀閣寺の方やったら、バス使えばすぐやろ」
「なんだ。よく知ってるじゃねぇか」
「だってほら」とポケットから取り出す真新しいミニマップ。
「アリス、お前…これどうしたんだ?」
「さっき生協で買うてん。火村が持って来いって言うたからな。一応。念のためって事で…」
思わず火村は絶句する。どうして、こんなに素直なんだ。バカ正直といおうか、全く…。
「でも、同じくらいの距離やったらたまには歩いてもいいで。いい運動になるし」
「アリスがいいなら、俺はかまわんが‥」
もう…何でもお任せします、とばかりに言うと
「じゃ、とりあえず本を見て、休憩してから考えよ」とにっこり微笑み返すその姿がやはり天使に見えた。
年に一度の古本市と電車に限らず市内各地に案内があったためか、知恩寺の境内は結構な人出だった。細目に見て回るとかなりの時間がかかりそうだったので、時間を決めて待ち合わすことにした。
「あっちの寺の段のとこあたりに一応一時間後な」
本には目のないアリスがわくわくして言うのを見送った後、二・三軒の出店を流しただけで火村は人込みから抜け出す。
どこかで一服‥と歩いた先で『境内禁煙』の文字を見て肩をすくめた。かといって、石段を降りて階下の歩道まで行くのも面倒だ。と、暇つぶしもかねて、本堂を覗いて見ることにした。
火村は信心はないが、美的鑑賞物としての建物や像にはそれなりに味わいを感じられるので、遠足や修学旅行で見た各地の名所もそれなりに楽しんでいた。
「ほぉ‥」
入り口とかかれた素朴な扉をひくと、神社独特の線香の匂いがする。一歩入って目につくのが巨大な数珠。堂内を天井伝いに取り囲んだ大きな珠の羅列。
────すごーい‥。おっきいおじゅずがぶらさ
がってるよ。
世間のスピードに取り残されたような空間に遠い声が聞こえる。それは、多分。幼い自分の声だ。
────ほら、英ちゃん。このお坊さんの頭をさすると賢くなれるのよ。
────頭?
────そう、英ちゃんは賢い子にならなきゃ駄目だから。お母さんは心を治してほしいから胸のところをさすっておこう。
────心って? お母さん、どうかしたの?
────ごめんね。さ、外で遊ぼっか‥。
そう言って母は自分の手を引いてこのお堂を出た。
とても冷たい手だった。
「…そうか。あの日の寺か…ここは」
歩けば寺社にぶち当たるこの町だから、天使と出会ったあの場所がどこだったかなど記憶にもなかった。この町に来てから探す気もなかった。目の前に天使はいたから。
なんて巡り合わせなんだ、と思わず笑いたくなる。毎日目の前を通り過ぎていた場所が。アリスと共に足を運んだこの場所が…。
そっと、扉を閉め外気に触れる。
十月下旬にしてはやや凍えた空気に冷やされ、クールダウンされた心が呟く。
「今さら、あの日にこだわるなんて…らしくなさすぎるよな」
見下ろした階下に流れる人の中でアリスだけが鮮やかに見える。
「他に欲しいものもないわけだし…」
もう、わかった。
ここでなくした思いは、ここで取り戻せばいい。
目の前から失った暖かさをここで取り戻せば、それでいい。アリスが天使かどうか…それもどうでもいいことだ。目の前にいる唯一人のお前。有栖川有栖にそれを求めるのは間違っているか? アリス…。
「お待たせ〜。いやぁ、大漁、大漁!」
ビニール袋を二つもぶら下げてご満悦のアリスが火村の横に腰をおろしたのは、別れてきっかり一時間後。
「…やけに時間厳守だな」
「だって、火村。随分早くからここに座りっぱなしやったやろ。時々みてたら煙草も吸ってへんし。なんか難しい顔してたし」
あの後、することもなく指定された場所に座り込んでいた火村をアリスも気にしてくれていたらしい。
「ほぅ。なかなか鋭い観察力だな」
「へへ。そうやろ」
ニコニコとうれしそうに答えるアリスに自分の本心が見透かされているとは思えない。どうせつまらない事を考えているのだろう、と試しに聞いてみる。
「で、未来の大先生の推理だと、俺は何を考えてたんだ?」
「エヘン。それはズバリ。これから何を食べようか…だろ」と自信満々の答えに感じたのは多分な安堵と微かな失望。
「…なるほど」
「なんや、その言い分は。違ったか?」
不服そうに火村をのぞき込もうとするアリスをさり気なくかわして、火村は素早く立ち上がり、
「いや、そういうことにしておこうか。じゃ、行くぞ」と、なかなかに重い二袋を先に手にして歩き始めた。
「ちょ…火村。待って」
追い駈けてくるアリスを石段の手前でふりかえる。
「なぁ、違ったん? さっきの…」
「…さぁな。ぼっとしてただけだからもう忘れた」
「何やそれ? まぁ、いいわ。本、ありがとう、重いやろ。自分で持つから」
何でもかんでも知りたがろうとする女達と違ってアリスは引き際を知っている。決して無理をせず、火村の中の遮断機が自分の為に開く時を待ってくれる寛容さ。こういう所もアリスの良い所だ。
「アリス…。お前この寺は初めてなのか?」
袋を手渡しながらの唐突な話題転換。
「え? ここ? そのはずやけど…何で?」
「いや、結構立派な寺だったから関西人のお前なら遠足ででも来た事があるのかと思って…」
「遠足…うーん、京都には来たけど確か金閣寺とか、清水さんとか…嵐山とか…。こういう町中の寺ってあんまり遠足では来ないんちゃうかなぁ…」
「そうか…」
呟きを残して石段を降りていく火村。その口にした煙草の煙が、妙に目に染みる気がするアリスだった。
その夜。火村は初めて下宿に人を泊めた。
そんなつもりはなかったのだが、成り行きでそうなってしまった。
「…まだ、起きてるか、火村?」
暗くなった部屋で声だけが行き来する。
「あぁ…」
「悪かったな。今日は」
「なんだ? 唐突に」
「いやぁ、急に押しかけてご馳走してもらって…その上、泊めてもらって。ホントごめんな」
「礼ならばあちゃんに言ってくれ」
そう。火村の下宿の大家の篠宮さんは、孫のような店子の初めての客を温かく迎えてくれた。おいしいご馳走と楽しい話題。そして何より優しい笑顔に『泊まっていけば』と声をかけられて、思わずうなづいていたアリスだった。が、当の友人の反応が気になる。なんだか今までと違う。不機嫌そうとでも言おうか‥。何かヘン‥なのだ。
「うん。それはもちろんやけど、火村にもちゃんと言っとかんと…」
「そりゃどうも。汚くて悪いがこんな所で良ければいつでもどうぞ、だ」
「ありがと。でも、俺の部屋よりずっときれいで。こたつ上げたらすぐに布団二つ敷けたやん」
「そう‥か‥」
思わず口ごもったのは、ばあちゃんとのやりとりがよみがえったせい。食事の後『有栖川さんがお風呂の間に』と号令されて、客用の一式を運び、せっせと働いてどうにか二人分の寝床を並べた。ようやく並んだピンクと青の布団と枕に『なんだか新婚サンのお宿みたいね』と笑顔で一言。それでなくとも、アリスと同じ部屋で寝る事になって内心かなり動揺していた所にその言葉は効いた。
『新婚さんって‥ばあちゃん?』と、珍しく慌てた声の店子に調子に乗って『大丈夫よ。古い家だけどまだ壁はしっかりしてるから。少々の声なんて聞こえませんから‥』と意味深な言葉まで残されて、火村は完全に撃沈した。
(そりゃいつかは手に入れたいと思っちゃいるが‥まだ‥まずい‥よな? 今のアリスには俺以外のものがありすぎる)等々。
あれこれと考えて、風呂で逆上せそうになったほどだ。つまりアリスの感じている『何かヘン』は火村の精一杯の虚勢。
そんな事とは露とも思っていないアリスは逆に色々と話かけてくる。空返事を続けていたものの最後には、眠ったふりを決め込んだ火村を信じたのかいつしかアリスの声も途切れていった。
穏やかな寝息を確認して火村は布団を抜け出す。
「眠れるわけがないだろうが…全く…」
静かにカーテンを開けると月明かりが差し込んだ。薄明りのもと眠るアリスを覗き込む。
どうしてお前なんだろうな…。こんなに好きだなんて。可哀相に。俺なんかに魅入られて…。
随分長い間、見つめ続けて。すっかり冷えきった細胞を動かしてみる。柔らかそうな頬に触れないように気をつけながら自分の体重を支えられる場所を探して、少し右横を向いたアリスを正面に捕らえる。
「アリス」
こみあげる愛しさを注ぎ込むように、火村はそっとその唇に触れた。
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