誘惑 その1
〜4月某日〜 「あー、まいった」 コーヒーをトレイから降ろして、隣に座り込んだアリスが苦笑いしている。 「全くな…。女の園とはよく言ったもんだ」 湯気がたちあがるカップをちらっと見て、火村は少し疲れ気味の声を返した。 「あぁ、それはなぁ…。しゃあないやん。タカラヅカ歌劇やもん。だから、無理して付き合わんでええって言うたのに」 「別に無理はしてないぜ」 軽く首をすくめた火村に(強がりー!)と内心でつけ加える。何年かのつきあいでわかる火村の苦手のあれこれ。化粧の匂いと無駄なおしゃべりもその一つ。今日は客席でも幕間でもずっとその渦の中にいたのだ、まいっているに違いない。 「ごめんな。ありがとう」 いずれにせよ、誘った手前、下手に出ておいた方が無難。 「なんだよ。大丈夫だって。お前も一応の義理は果たしたんだろ。親戚の晴れ舞台」 「まぁな。でも親戚って言える間柄やないって」 「伯母さんのダンナの従姉の嫁ぎ先の妹の娘だったか?」 「残念。ちょい違う。最後が妹の孫娘。ま、たいした差やないわ…会った事もない子やし」 そのアリスの伯母さん夫婦が観るはずだった彼女の初舞台の日が突然都合が悪くなり 『近くに住んでるんだから見に行って』と速達が送られて来たのが木曜日。公演のある土曜の午後は元々、火村と映画に行こうと約束していたので、どうしよう‥と迷いつつ切り出した所、意外にも火村が『行く』と返答したため今日の観劇となったのだ。 「とりあえず、初舞台のあいさつしたとこだけははっきり見たって報告出来るから、お役目ごめんって感じかな。それで、火村はどうやったん? タカラヅカ、初めて見たんやろ」 火村の動機は『百聞は一見に如かず』。関西圏に住みながら知らない世界だから覗いて見ようという軽い気持ちだったそうだ。 「そうだな。質は上質。歌、踊り、芝居、それぞれによく鍛えられてると思ったよ」 「ふーん。ちゃんと見てたんや」 意外そうにアリスが言う。 「なんだ、それ」 「だって…芝居はともかく、後のショーの方なんてよく寝てたやん。よっかかってくるから重かってんで」 「悪い悪い。確かに最後は疲れた。本当に舞台も客席も女だらけで…。行きはギリギリに着いたからさほど感じなかったけど、休憩時間にやけに浮いてる自分を痛感したからな」 「そりゃそうやな。でも、今日なんてまだ男の人、多かったと思うで。言うても、最近は俺も行ってないけど」 「ってことは、昔は行ってたのか?」 「大昔にな…、ほらすごいブームになった『ベルバラ』ってあったん知らん?」 「何年か前にニュースで見た気がする」 「それは多分再演で、最初は俺らが小学校の頃やったと思うけどな。あの頃に母親が結構気に入って、連れていかれたんや」 「ふーん。…おふくろさん、案外その前にもはまってた時期があるんじゃないか?」 「なんで?」 「いやぁ、ここに載ってても全然不思議ないと思ってさ…」 火村の手にあるのは今日の公演のパンフレット。きらびやかな女性が見事な微笑みでおさまっている。 「意味不明、なんで俺が載るん?」 それを取り上げ、パラパラとページをめくるアリスの横で火村が読み上げていく。 「霧立のぼる、真白ありさ、小笠原ジュリア…ってこれ芸名なんだろ。有栖川有栖、本名で十分負けてないじゃないか」 「…悪かったな、こんな名前で」 アリスの声が微妙に変わる。少しばかり不機嫌なご様子…。 「悪いなんて言ってないぞ」 アリスが火村の内側を読むように火村もまたアリスの機微に気付いてしまう。 タブーとは言わないが、アリスはあまり名前の話を好まない。 今でこそこうしてすねる程度で納まるが、小さい頃はその容姿のせいもあってよく女の子に間違えられ、からかわれ、怒りのあまり爆発していたらしい。 でも‥。 『よくいじめられた』とアリスは言うが、相手は純粋にアリスに関わりたかったのではないかと火村は思う。 初対面の時から話が弾んだ要因の一つが『火村は俺の名前のこと笑わへんかっ たから』だと聞いた事もあるが、あまりにも似合いすぎて言う言葉がなかっただけで。幼い頃の自分ならおそらく同じ事をしたのではないか。 それはさておき。 (まずかったな…) 話題をすり替えるためにパンフレットを更にめくる。 「そういや、今日の芝居にもアリスが出てきたな」と、指差した文字ばかりの台本のページ。 「それなぁ、全くまいったわ…」 「劇の間中そわそわしてたろ」 「気付いてたん?」 「まぁな」 (他に見る所もなし。見たい所もなし‥) 内心でそう付け加えながら、火村はキャメルを手にする。アリスには適当に理由を言ったものの、別に歌劇に興味があったわけではない。自分の約束と親戚とのしがらみでアリスが困るのを見たくなかったから一緒に行ったまでの事。 幸か不幸か、この愛くるしい存在は自分のそんな思いを露とも気付かないでいる。とはいえ自分自身もつい最近までは迷っていた位だから当然なのだが。 大学卒業が近づくにつれ会う時間が減っていった。片や就職、片や院へとそれぞれの進路を定めてからは、更に。努力しなければ会う時間すらままならない状況になった。普通ならば、進路が変われば疎遠になっていくものだ。思い出せば連絡し都合が会えば会い。いつまでも学生気分じゃいられない…と新しい環境に馴染む中でつきあいも薄くなっていって当然。 だけど何故か、ただ一人。この有栖川有栖との時間だけは失いたくないと執着している自分に火村は気付いてしまった。『何故だろう』と悩んでみても、『そんなはずはない』と否定してみても結論は変わらない。つまりは友達の域を遥かに超えた感情を相手に抱いているという事。平たく言えば火村英生は有栖川有栖に惚れているという事だ。とはいえ、女嫌いを公言している自分はともかく、とにかく天真爛漫で真っすぐなアリスに、今更何をどう切り出すかなど全く暗中模索。 ただ愛しくて。大切で。つい、何をやっていても見ずにはおけない。 そんなアリスが劇の間中百面相をしているのだから目を離せるわけがない。 原因はわかりきってはいたけれど。 「だって、よりによって主人公の恋人になる役の名前がアリスやもんなぁ。アリス、アリスって何回呼ばれたことか」 その話は御曹司と貧しい女の子のラブストーリー。ありがちな内容をいかに美しく演出出来るかが勝負、といった作品だった。 「熱烈に告白されてたなぁ」 「ホンマ‥それはそれは情熱的に繰り返して、『アリスー!』って呼んでくれるから、自分のことやないってわかってても照れたわ」 心なしか赤くなった頬がまたまた可愛くて。 「相手は女だぞ」 つい、からかい口調になってしまう。 「わかってるよ。けど、見かけは俺なんかより余程カッコいいやんか。どこから見てもいい男って感じに見えるやろ」 「ってことは、男に口説かれて照れてることになるわけだぞ、アリス」 「ん? あれー? いや、そう言われりゃ何かおかしい気がするなぁ‥でも、ドキドキしてん」 困ったように見つめられて、くらくらするのは火村の方。全く罪作りな…。 「ふーん…」 「いや、だから…別にそんな男にどうのって言うんやないねん。…けど『愛してる』とか『好きだ』とか自分の名前で連発されたらやっぱ変な感じにもなるやん…」 意味ありげに返されてしどろもどろに対応する姿が、なんだか癪にさわる。かっこいい男に口説かれて変な感じになるなんて、危険な発言を聞き逃すほど寛容でもない。 だから──── 「試してみようか?」 呟きはアリスに届かなかったらしい。照れ隠しのようにゴクンとコーヒーを飲み干す隣で火村はキャメルをもみ消す。 「ん? 何?」 カップを置きながら聞き直すアリスにニヤッと笑うと、突然イスから降りた火村はアリスの傍らに膝まづく。 「口説いてみようか? お前を」 「なんて?」 突飛な行動にぼぉーっとしているアリスの手にその手が重なった。 「ちょっ…火村、何やねん。冗談止めてや」 「冗談なんかじゃない!」 振りほどこうとした手を更に強く握り、驚くアリスの声を打ち消す火村の声は異様に強い。 ヤ 「止めようや火村。急に…どうしたん? 芝居なんてしたこともないくせに‥」 なんとか言葉を切り出してはみたものの、更ににじり寄るよってきた火村はアリスをしっかりと見つめている。 「止められない。好きなんだ。アリス」 「火…村…?」 さっきまでの火村とは全く違う。その真剣さにアリスは思わず息を飲んだ。 「愛してるんだ、アリス」 臆面もなく言ってのける火村はまるで舞台俳優のよう。朗々としたバリトンはきっと誰をも魅了するに違いない。その声がよどみなくアリスに降り注がれる。 「言葉には出すまいと思っていた。お前を苦しめてはいけないと思ったから。でも、心は正直だ。お前を見ればときめく。お前に会えば触れたくなる。抱きしめて離したくないと思う」 そう言って恭しく手を取り、唇を寄せる火村に既にアリスは呑まれている。 「好きなんだ、アリス」 甲から指先へ…触れるか触れないかの距離で唇をずらしながらその言葉を囁かれ、震えがくる。 「…もう…いいって」 思わず漏れたつぶやきを打ち消すように、なおも火村が畳み掛ける。 「わかってほしい。家柄だの常識だの…そんな世間のしがらみに縛られてこの 愛を失いたくはない。初めてなんだ。これほど迄に愛しいと思ったのは。逃げ ないでお前の気持ちを聞かせてくれないか、アリス」 軽くくわえられた人差し指から電流が走る。確かにそんなシーンはあった、そして劇の中のアリスはいけないと思いつつ、その胸に飛び込んで難関と立ち向かうのだけれど。 「わかったから…放してや、火村」 精一杯のつもりなのに、弱々しい声しか出せない。それでも、お遊びを終了させるには十分だろうに。 「イヤだ。放さない。お前が本気で答えてくれるまで、放せない」 アリスの否定など相手にもしない。強く確信に充ちた声がアリスを捕らえる。 「ずっと好きだったんだ、アリス。名付ける言葉を知らなかっただけで、ずっとお前を見ていた。何故お前を追ってしまうのか、こんなにも気になるのか、それさえもわからなかったけれど、今ならばわかる。空虚だった俺の毎日に彩りをくれたのは、お前だ」 力強い説得。そんなシーンはなかったはずだ。 危険…キケン…と、頭の中で警告ランプが点滅する。悪ふざけとわかっているのに、何だか危険。それ程に鋭い火村の視線がアリスを射抜いている。 「楽しい事を楽しいと笑い、悔しい事には負けられないと頑張るお前の生命力が俺をひきつける。俺に生きる意味を与えてくれる。うぬぼれかも知れないけれど、お前も俺を見ていてくれただろう。‥もっと、正直にお前の気持ちを見つめてくれないか‥」 それは劇中の二人とは違う世界。 だからこそ、危険。本気のように思えるから、もう…。 「止め…よ…」 逃げなければと外した視線に火村の手が伸びてくる。 「目を逸らさないで…アリス」 「…火村…」 頬に添えられた掌が熱くて…。 「好きだ」 近付いてくる声が恐くて…。 「アリス」 視界に入った火村がぐんぐん大きくなってくる。後退りしようとした背を引き戻す強い腕。 「お前が必要なんだ…」 瞬き一つする間に、更にその距離が縮まって。 「答えを‥アリス‥」 吐息のかかる空間で囁かれて、逃げ場がなくなってしまう。言葉になったかどうかはわからないけれど、ただその名を口にするのが精一杯。 「‥‥‥火村‥」 「愛してるよ」 火村の呪縛に囚われて、アリスは目を閉じる。 近付きすぎるほど近付いた密接な気配に(‥キスされてまうのかも)とふと思うが、もうどうしようもない。 なすがまま‥されるがまま‥ 覚悟を決めて数える時間の長いこと。 ふっ…と触れたか触れないかの微妙さで火村の気配が掠めていく。 「あ…」 「‥‥って感じで、舞台ではキスしてるように見えるわけだな」 耳元で聞こえた声に、弾かれたように目を開ける。 「火村?」 「なんだよ。その不満そうな声」 苦笑いしながら、アリスから離れた火村はいつもの火村で‥。 「おーおー。茹でだこみたいに真っ赤な顔して、キスされるとでも思ったか?」 「ア、アホな事言うなや。全く、人をからかうのもいい加減にしいや」 顔いっぱいにイエスと書きながら、必死に否定してくれるのだから思わず笑いが込み上げてしまう。 「ドキドキしてたんだろ?」 「してへんわ」 紅いと言われた頬を両手で押さえ不満げに呟くアリスの横に火村は座り直す。 「強がるなって。芝居でなく、本物の良い男に迫られるんだから当然。当然」 「どこに良い男がおんねん」 「ここに…」 ようやく呑み頃になったコーヒーを口にして平然と火村は答える。 「なんやねん、もう。飲む前から酔っぱらいやな。いい加減にしとき。早よ、シャワーでも浴びてこいや」 その落ち着きに自分だけが遊ばれているようで、捨て台詞を残してアリスが立ち上がると、火村もそれに続いた。 「いや、帰るよ」 「え? これから?」 意外な言葉に時計を見るともう午後10時すぎ。6時頃に公演を終え食事を取り夕陽が丘へと共に向かったのは、アリスの部屋で飲み明かす予定だったからだ。とりあえずコーヒーを飲んで、シャワーを浴びてから店開き…なんていいながら買い込んだ近くのコンビニの袋もまだ開けてもいない。 「泊まってくって言うてたやん」 「そのつもりだったけど…いいのか?」 「何が?」 「俺はお前を口説いてるんだよ。アリス。二人きりは危険だろう。こんなどこにも鍵のかからない部屋ばかりで」 振り向いたアリスの手に空のカップを手渡す火村はまたまた真顔。 「本気…なんか?」 火村英生という男は、どこまで本気でどこまで冗談なのだか‥。時折わからなくなる。ふざけたと思えば超真面目になったりして…。掴み所がない。 「さぁ? どう思う?」 「…はっきりいって…わからへん」 でも、少なくとも悪人ではない。何かあれば沈着冷静にアドバイスをくれたりするし。自分にとっては頼れる友人だ。だからといって…。 しばし考え込んだアリスの横を火村はすり抜ける。 「じゃあ、考えてみるんだな。宿題にしておくから。ごちそうさん。おやすみ」 バタン…。扉の閉まる音で我に返ったアリスが慌てて扉を開ける。 「おい? ちょっと…火村?」 呼び止めた声にエレベーターホールの方から声だけが届いた。 「いい夢見ろよー!」 ────真夜中 「芝居やんなぁ‥。火村らしく辛口のジョーク‥」 でも。それならわざわざ宿題などというだろうか? 本気か、冗談か‥。考え続けて眠れない時を過ごしていたアリスから何度目かの溜息がこぼれる。 「指先から説得されるかと思った」 この掌を滑った熱さを思い出すだけで、まだぞくぞくしてくる。 「電気走ったもんなぁ‥。火村が‥あんな事するから」 甦るあの感覚。あの瞳。あの声。 さっきは強がってみたけれど、火村は確かにかっこいい。面食いを自覚する自分が認める男前なのだから。 「好きって言うたよな‥あれが芝居?」 その目を思い出し、またドキドキする。 「本気なんか? 火村‥」 あれこれ考えていつのまにか、自らの指を噛み締めている自分に気付く。 それは火村が握り締めた掌。唇を滑らした指。 「‥あ‥これって、間接キスになるやんかー」 叫んではみたものの嫌悪感があるわけではない。全身に駆け巡る感覚は安心感に似て…。火村の傍にいる時の心地よさが隅々に拡がっていくような感じ。 口説いてるんだよ、と火村は言った。だから二人きりになれない、と。 「はっきりいって俺、口説かれて完璧に落ちてる‥。じゃあ何を考えるんや?火村が好きかどうか? そんなん嫌やったら一緒にはおれへん。わかりきってる。そしたら何? ‥あぁもう、知らん! 勝手に飲むぞ、火村のアホー!」 ついに、二人で飲むはずだったビールやウイスキーをドドンと並べたアリスは、一人でやけ酒を始めてしまったのだった。 |
その2に続く |