回顧 主として1960年代の 伊予鉄道・松山市内線
Looking back on the sceneries along Matsuyama Urban
Tramcar Lines of Iyo Railway Co. mainly in 1960's
城南線・城北線 松山駅前→国鉄駅前→松山駅前
Matsuyama Station of JR, Jonan Line and Johoku Line
国鉄・松山駅が開設されたのは、昭和に入った1927-4-3で、県庁所在都市では、最後の代表駅となった。
伊予鉄・松山駅の開設が1888-10-28だから、38年も後の事である。
それ迄は、海路だけで中央と結ばれていたのが、鉄路でも結ばれるようになった。
国鉄・讃予線*の松山延長に伴い、 鉄道省は、「松山」の駅名を譲るように伊予鉄に要求し、伊予鉄はこれを拒否する、という争いになった。
結局、鉄道省が伊予鉄を押し切り、伊予鉄は、駅名改称を余儀なくされた。(松山→松山市)
*1930-4-1 讃予線と山陽線の発音が紛らわしいので、予讃線に改められた。
1927-4-3、松山駅開業に合わせて、伊予鉄は、とりあえず古町―松山駅前を開業し、城北線経由で省線との連絡をとった。
続いて1929-3-30に、萱町―古町が開業し、西堀端―萱町―古町―松山駅前の市内線が完成した。
西堀端―松山駅前の短絡線は、途中に高浜線との平面交差が生じる事から、認可が遅れ、開業したのは、1936-5-1である。
電停の名前は、"松山市駅前"との混同を避けるためか、1967-1-1に、「松山駅前」が「国鉄駅前」と改称された。
しかし、国鉄の分割民営化に合わせて、1987-4-1に、「松山駅前」に復した。
国鉄→JR四国・松山駅
1927-4-3に完成した松山駅は、1976-7-26の戦災で焼失し、木造、平屋の仮設駅舎が用いられていた。
1953-10-22の四国国体開会式(松山))に間に合わせるべく、1953-9に、駅舎が新築された。
1960-1-3:松山駅/南側から
仮設駅舎の外側(東側)に、駅舎が新築された。
(駅舎と第1プラットフォームとの間の、帯状の空間が、仮設駅舎があった位置である。)
かつては、城北線は「↑」の部分を専用軌道で通じていたが、1953-12-11に約50m東(右)の現位置に移った。
1960-1-3:松山駅/東側から
この頃は、歩道と車道の区分が無い。
↑
左:1964-11-22:松山駅
北部の一部が3階建になった。3階は、ステーションデパート、という店になっている。
1960-1-4:松山駅/2番線
発車直後の、10列車/松山発高松行き/臨時準急「やしま」(気動車列車)。
準急は、蒸気機関車牽引の客車列車だったのだ、この頃から、準急の一部が気動車化された。
この頃は、跨線橋は、プラットフォームの北部にある。(跨線橋は、後の1978-1に、南部に移った。)
1969-9-22:松山駅/1番線
604D/宇和島発高松行き/急行「うわじま1号」気動車キハ28系8連。
四国では、1961年以降、気動車化、無煙化が強力に進められた。
客車列車(ディーゼル機関車牽引)は、主として混雑時の運用だけになった。
右の2番線に、その客車列車が停まっている。