貫線(Kan Line or Traverse Line)―1
東の九大前から西の姪浜(めいのはま)まで、福岡市の主要部を東西に貫通する路線を、貫線と通称する。
(1975-11-1に、九大前―姪浜11.9kmが廃止された。)
九大前(Kyudaimaë)(Kyushu University)
軌道廃止後
九大前(きゅうだいまえ)―1963-3-17
線路始端は、単線になっていて、ここで乗客を乗せ、折り返す。停まっているのは21系統六本松行き110(=100形)である。
100形は、北九州線の前身、九州電気軌道の木造ボギー車(1911〜1918年製造)である。戦後に、北九州線から福岡市内線に、大量に移動して来た。
右は、軌道廃止後の 1994-10-9の状況である。軌道の痕跡は無い。歩道が設けられ、並木がある。ビルが増えている。
軌道廃止後
軌道廃止後
九大前(きゅうだいまえ)―1963-3-17
始端方向を見たもので、停まっているのは3系統博多駅前発の501(=500形)である。
500形は、1948〜1950年の製造で、福岡市内線の主力となっている。
右は、軌道廃止後の 1994-10-9の状況である。古い建物の多くは姿を消している。
右側の茶色のビルは、「帝大コーポ」の名である。九大の地位の高さを物語る名前である。
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箱崎(Hakozaki)
筥崎(はこざき)神宮参道との交差点にある停留所である。
筥崎神宮は923年創建の古社である。伏敵門には、元寇勝利を祈念した「敵国降伏」の扁額がある。
軌道廃止後
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箱崎(はこざき)―1963-3-17
網屋町、九大前方向を見たものである。亘り線は、22系統(六本松行き)が折り返すためのものである。左には留置線がある。
向こうに見える踏切は、筥崎神宮の参道で、右に行くと神宮がある。
馬出(まいだし)、姪浜方面行きの乗り場は、踏切の向こうにある。
右は、軌道廃止後の 1994-10-9の状況である。昔の写真と比べると、左の歩道と植え込みに、留置線とプラットフォームの痕跡をうかがい知る事が出来る。
軌道廃止後
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箱崎(はこざき)―1963-3-17
馬出(まいだし)、姪浜方向を見たもので、ここから先、千代町の手前までは、専用軌道である。
停まっている電車は、21系統九大前行き(500形)である。
手前の踏切は、筥崎神宮の参道で、左に行くと神宮がある。
踏切の右に飼い犬がいる。当時は、犬の繋留は強制されておらず、放し飼いの犬がしばしばいた。
右は、軌道廃止後の 1994-10-9の状況である。ここから先の専用軌道撤去跡は、西鉄バスの専用道になっている。
千代町(Chiyomachi)
千代町では、東西方向の貫線と、南北方向の循環線が、十文字状に交差しているほか、交差点の南側で循環線から吉塚線が南東方向に分岐している。
千代町(ちよまち)―1963-3-17
医学部前、箱崎方向を見たもので、停まっている電車は、3系統博多駅前行き.552である。
その手前を、循環線が横切っている。
左手前に、貫線から循環線への亘り線が見える。その向こうにポイント操作所がある。
突き当たりには、東公園がある。
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千代町(ちよまち)―1963-3-17
蓮池、姪浜方向を見たもので、停まっている電車は、6系統貝塚行き(500形)である。
手前を、循環線が横切っている。
尚、千代町から先、川端町の手前までは、道幅が狭く、歩道が無い。
呉服町(Gofukumachi)
呉服町では、呉服町線が南に分岐している。
呉服(ごふくまち)―1959-8-15
土居町、姪浜方向を見たもので、左に呉服町線が分岐している。
右向こうに、ポイント操作所がある。
左から曲がって来る電車は、九大前行き .522である。この当時は、系統番号は、未だ用いられていない。
交差点の向こう側には、九大前行き210(=200形)が停まっている。200形は、1943年製造の、福岡市内線初のボギー車である。
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呉服(ごふくまち)―1959-8-15
博多大丸屋上から、貫線の土居町、姪浜方向を見たものである。
この辺りから、福岡市の都心部に入る。
左手前で呉服町線が分岐している。
呉服(ごふくまち)―1959-8-15
蓮池、千代町方向を見たもので、右に呉服町線が分岐している。
交差点の右向こうに博多大丸がある。
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