Central Scotland
Elgin

2005/7/9(sat)~7/11(mon)

前年の旅でInvernessに泊まらずにまだ足をつけていない近くの比較的大きな町であるElginに泊まろうかとも思っていました。しかし、ルートが複雑になり、且つ、2泊では足りないような気がしてやめたのです。今回はこの町の南や東の辺りを回っているので、ルート上になり泊まることに。宿はInverurieで予算ギリギリの宿代だったところが確保できました。
Inverurieの宿を出る時、奥さんに近くのバス停でElgin行き(Aberdeen発、終点はInvernessの急行)のバスに乗れるか聞いてみたのですが、良く分からないと。旦那様がたまに利用されるので、わざわざ呼んで聞いてくれました。そして近くのバス停でOKと。ここがダメなら町中まで行かないといけないのです。次第に重くなってきている荷物を引っ張ってのことですから、大変なのです。Elgin行きなら道を渡らなくても良いとまで(そんなことは分かっていましたが)。そして旦那様が”時々運転手がよそ見をしているので、バスが見えたら手を振った方が良い”と。危ないバスなんでしょうか? この町に着いた時は忘れられて降ろしてくれなかったので、その注意を聞いた時、思わず笑ってしまいました。来たバスの運転手はちゃんと見ていて、通過されることもありませんでした。土曜日とあって、途中の町で結構人が乗ってきて、Elginに着く時には満席の状態でした。
Elgin到着後、予約表にあったルートをバス・ステーションで確認して歩き出しました。しかし、曲がらないと行けないと思われる通りに表示がなく、不安になり、その先にツーリスト・インフォメーションがあるのは確認していたので聞いてみることにしました。地図をもらった時、係の女性は何処を探しているか聞いてきたので、予約表を見せると、道順を地図に書いてくれました。この女性、他の旅行者にも手順良く対応し、また、その後に聞きに言った時にも手早く対応してくれました。勘の良い女性(◎です!)で、他のツーリスト・インフォメーションにもこんな人がいてくれたら…と思うくらいでした。殆どは良い対応なのですが。

Elgin
Elgin town北海岸が北海に面するMoray州の首都。歴史のある町で、その町並みや建物は今でも残されています。蛇行しているLossie川の低地になっている両岸で12世紀から町は発達してきました。David Ⅰ世によって自治として作られ、西側にあるLady Hillの上に城が、東側に大聖堂が建設され、繁栄してきました。
町の名は”Litttle Ireland”から派生したものです。Ealg(ゲール語)は初期のIreland名で、-inはゲール語の接尾辞で’小さい(little)’に対応しています。このような名前になったのはゲール語を話すIrelandから渡って来て人々が住み着いて、母国の思いを残すためだったと言うことです。しかし、後にealgは'noble'または’excellent'も意味するようになり、町の名前はIrrelandまたはDalriada(ダルリアダ、元々は北IrelandのAntrimに王国を築いていたが、500年頃にScotlandへ渡ってきた人達が同じ名前の王国を築いたと言われている)には関係のない単に’worthy place(価値のある地)’を意味するようになりました。
町及び周辺地域の人口は約2万3千人で、Scotlandにすると比較的大きな町と思われます。その為に、日曜日の滞在でも殆ど不自由なく過ごせました。(Londonの)テロの影響も荷物預かり所以外は影響が全くないと感じられました。
交通
  1. 鉄道
    Aberdeen-Inverness間の途中にあります。Invernessから約45~50分、Aberdeenから約1時間半。 平日・土曜日は2時間に1本、日曜日は3時間に1本の割で運行されています。駅は街の中心から南に少し離れた所に位置しています。
  2. バス
    こちらもAberdeen-Inverness間の途中になります。Invernessから約1時間半、Aberdeenから約2時間半で、私が乗ったInverurieからは約1時間半です。日曜日には早朝の便がなくなりますが、平日・土・日とも1時間に1本の割で運行されています。Stagecoachの営業になります。バス・ステーションは町の中心部にあります。
Town Trail
町の名所を巡るコースが示してありました。公共交通機関が少なくなる日曜日に歩き回るのは丁度良かったのでした。このコースに示してある順にご紹介しますが、実際は宿の場所・時間的等の都合の良い所から回っています。
  1. Elgin大聖堂
    Elgin CathedralMoray州の司教区は1107年に設立されましたが、‘Elgin側の三位一体の教会’に移転される1224年までは大聖堂はなかったのでした。Elgin大聖堂は元々は単純な十字形の建物でしたが、1270年の火事の後、聖歌隊席は両側に通路が付いて2倍の長さになり、牧師団会議場(Chapter House)が北側の通路の端に建てられました。1390年に’(悪名高い)Badenochの狼’として知られるAlexander Stewart(1343-1406、RobertⅡ世の4男)が大聖堂を含むForresとElginの両方を略奪し焼き払ってしまいました。大聖堂は余りにもダメージをひどく被ってしまい、西側の切り妻壁、ネーブ(身廊)のアーチ、中央の塔、牧師団会議場を再建する必要がありました。
    長い間抵抗があり修復は手が付いていませんでした。1567年にトタン屋根が外れ、1637年に聖歌隊石の足場が崩れ落ちました。1640年には磔の絵があった仕切が崩れ落ち、1711年のイースターには中央の塔が北の翼廊とネーブの中央のアーチを破壊しながら崩れました。その後も崩壊は進み、1807年に囲いが作られ、衰退は泊まりました。1824年頃、John Shanksが管理者に指名され、何年も蓄積された廃物を排除しました。
    ここもSt.Andrews大聖堂と同じく、徹底的に破壊されています。St.Andrewsと比べると、規模は小さいものの、荒廃の後が淋しく感じられました。西側に建つ塔と、東側の丸窓の跡が印象的な聖堂でした。塔の中に登ることが出来、中の部屋を見ることが出来ますが、何にもありません! 窓も殆どが板で塞がれています。北側の塔の屋上に出ることが出来ます。そこからの眺めはとても良かったです。
    中央あたりには、Pictish stoneが立てられています。表面にピクト絵が彫られた石板で、1823年にSt.Giles教会近くで発見され、この聖堂の敷地に展示されています。
    ここには着いた日(土曜日)に入りました。ちょっとだけ眺めるつもりが、閉館まで1時間半はあったので、つい入ってしまいました。日曜日にも開いているのでその時に入らなくても良かったのですが。入場料を払うと、係のお兄さんが”どこから来たの?”と聞き、”日本のどの辺り?”と続いて聞きます。”大阪の近く”と答えると、持っている地図帳(おそらく彼個人のもの)を開き、どの辺か確かめていました。住んでる国や町はよく聞かれますが、ここまでする人は初めてです。そのお兄さん、”南から北まで2日で行けるか?”と。そんなの知る訳ありませんが、”2日では無理。3日はかかる”と答えましたが、交通手段を聞いていないから、いい加減な答えでした(実際にお兄さんが行く訳ないと思うけど)。そして、私がこの日の最後の入場者で、当然中をゆっくり回ったものだから、最後に出た客でもありました。
  2. The Bishop's Palace
    上記の大聖堂のすぐ横にあります。(教会聖歌隊の)先詠者の牧師館だった建物で、大聖堂の教区内で20を超える一群の牧師館の唯一原形をとどめている建物です。
    建物は1557年に出来ていて、Patrick Hepburn主教(1535-73)、Robert Reid、Kinloss大修道院長、そしてOrkneyの主教の所有となりました。伝統的にはMorayの主教の別邸でしたが、おそらく先詠者の牧師館だったと思われています。
    この館の設計は変則的で、北のそでは付け加えれらているようです。建物の主要な部分は、1階がアーチ形天井の台所と貯蔵室、2階がホールがあり、その上に個室の寝室となっています。
  3. Brewery Bridge
    2つのアーチを持つ橋で、1798年のもので、1913年までBreweryから大聖堂の西側のLossieの対岸に早く渡ることができたため、そう呼ばれています。
    Town Trailの地図を参考に、この辺りに名所があるはずなのに…と思いながら回りを見渡しました。そして改めて地図の解説を読むと、自分が渡ったその橋でした。解説がなくても、橋は印象的だったので、その前に写真を撮っていました。
  4. Panns Port
    大聖堂敷地内の壁にあった4つの門のうち、唯一1857年に再建されたもの。‘le Pannis’として知られた東側に隣接した牧草地に由来する名前です。大きな木製の扉に落とし格子、アーチ、落とし戸が再現されています。欄干と飾り隙間は19世紀に修復されたものです。
  5. Anderson's Residential Care Home
    Elginの歴史の中で最も素晴らしいロマンスの1つである話の地元の卑しい生まれの少年George Alexander Andersonが”老人の援助と若者の教育のためのElgin施設”を設立するためのお金を遺言として残しました。建物は1831年に建てられ、St Giles教会の建築技師であるAberdeenのArchibald Simpsonのデザインによるものです。
  6. The Grey Friars
    1479年に現在の場所へ移されました。建物はJohn Kinrossによって前世紀の終わりに修復されました。”Scotlandで見られる中世の托鉢修道院の最も良い例”とされています。
  7. Little Cross
    1402年に大聖堂を破壊に追い打ちをかけたAlexander Macdonaldの懺悔の1つとして最初の十字架がここに立てられました。大聖堂の聖域の境界の印となり、さらし台(原文は"jougs" and "stocks"、"jougs"はScotland語で"pillory"-さらし台、"stocks"もさらし台の意がある)が置かれた処罰を与える場所でもありました。
  8. Elgin MuseumThe Elgin Museum
    Elgin文学科学協会の収集を所蔵したThomas Mackenzieの目的のために1842年に建てられ、その協会の継承者であるMorayソサエティによって現在も運営されています。
    博物館はこの地域の歴史を図解した幅広い展示を行っています。20-40億年前の化石の収集も展示されています。化石の中には、地元で発掘され、いくつかは独自の種類の爬虫類で、1個の恐竜は世界的に知られています。有名なBurghead Bull(牛)を含む古代の彫刻を施した石から、 銃、時計、衣類、Elgin銀、地域の生活用品、北海油田の最近の開発に至るまでの展示があります。開館は4月-10月末の、月-金の10-17時と土曜日の11-16時で、有料。
    ここに入ったのは到着した土曜日です。翌日に町を回るつもりでしたが、ここは日曜日は閉館と分かったので先に入ったのです。入口で、オーディオ機器を渡され、展示コーナーである番号を押すと説明(英語)を聞くことができます。コーナーにはそれぞれいくつかの種類の説明がありますが、その説明のどれもがあまりにも長くて、途中でやめてしまいました。石の展示に関して、他の地域の資料も置いてあったので手に入れてきました。その中に、BurgheadとGroam House(Rosemarkie)がありました。
  9. Braci's Banking House
    High Street7番地にある3階の建物です。1694年に建てられ、良く保存されています。1703年から1722年までは、Fifeの伯爵の先祖であるDippleとBracoのWilliam Duffの銀行業務を行っていた建物でした。
    今は1階は自転車屋さんになっていました。写真を撮っていると通りがかりの小父さんが、”あれは以前は銀行だった。お金を払ってもらえる。”と言って、去っていきました。日曜日の朝からお茶目な小父さんに会いました。
  10. Masonic Close
    High Street15-25番地にある建物で、1971年にElgin基金の最初の修復プロジェクトの対象物でした。裏側はMasonic Closeで、町中の集合住宅の中で、古い建物と新しい建物が上手く混ざり合った建物です。
    この1階の半分にツーリスト・インフォメーションが入っています。
  11. Red Lion Inn
    High Streetの42-46番地の建物です。Elginはアーケードのある建物で有名ですが、ここはその良い例です。18世紀にはここはRed Lion Innで、Dr Samuel Johnsonが”Scotlandの食卓に不満である理由を見つけた”唯一の場所でした。裏側に回ると、最近修復されていて、Scotland自由都市の建築上の素晴らしい例になっています。
    1階は普通のお店で、建物にもプレートや番地の表示がなかったので通り過ぎたのですが、地図の大方の位置と、名前の”赤い”からようやく分かりました。通りに面した壁が黒っぽい赤でした。
  12. The Tower
    元々はSt Johnの騎士団の所有物だったという言い伝えがありますが、塔自体はRothesの谷(Elginの南にある)のAndrew Leslie(Elginの商人で且つ行政長官だった)によって1634年に建てられた集合住宅が一部残ったものです。1859年に改造されています。
  13. Muckle Cross
    High Streetの一部で、何世紀もの間墓地と市場の両方で使われていました。ここには1365年くらいから十字架がありましたが、現時のMuckle Crossは、1792年頃に壊された17世紀の十字架を1888年に再現したものです。
  14. St. Giles Kirk
    12世紀からここにある教会です。Elginの守護聖人St. Gilesに捧げられていて、現在の教会は1827年以降のもので、Archibald Simpsonによるギリシア・ドリス様式の寺院の様式です。大聖堂を除けば、Elginで最も知られている建物です。
    街の中心にある教会で、日曜日には多くの参列者がいました。この前は広場になっていて、両側には商店が並んでいます。バス・ステーションは側のSt. Gilesセンターを下に降りた所に隣接していました(St Gilesとそんなに落差があるとは思えなかったのですが)。
  15. Thunderton House
    現在はThundertonホテルになっています。Elginで最も華麗な家で、全体が残されています。嘗ては果樹園と木球競技場があった王室の邸宅でした。中世にはScotland王達の”重要なロッジ”で、1746年にはBonnie Prince CharlieがCullodenに向かう途中でここに滞在しました。1650年にDuffusの君主Alexander1世が再建しました。
  16. Lady Hill
    丘の名前はLady Hill(Elgin Castle & Monument)町が作られた最初の頃からここにあったElgin城に繋がりのあった聖母マリア(Our Lady)教会に由来しています。
    • Elgin Castle
      廃墟となった城は約240×50フィート(73.2×15.2m)で、嘗て初期のScotlandの王達の要塞であったことが1160年のMalcolm IV世の憲章に喜寿されています。
    • Lady Hill Monument
      名声高い農学者で兵士だったGordonの最後の第5代公爵のGeorgeの記念碑です。高さ80フィート(24.4m)のトスカナ様式の円柱は1839年に建てられ、1855年に高さ12フィート(3.7m)の伯爵の像が付け加えられました。
    右の写真は大聖堂の屋上から撮ったもので、モニュメントの右下あたりの石垣がお城があった所です。しかし、丘の上から大聖堂の塔は木々に遮られて余りよく見えませんでした。丘の上も結構高いので回りの眺めも良かったです。記念碑の上の像の首には緑色のプラスチックの輪が回してありました。命がけのいたずらなのでしょうか?。
  17. Dr. Gray' Hospital
    High Streetの西の端にある大きな建物はあ1816-19年にDr Alexander Grayの遺言で建てられたDr Gray病院です。Dr GrayはElgin生まれで、東インド会社の力添えで蓄財を貯めていました。
  18. Mary Well
    Maryhill Houseの素晴らしい庭園の橋の下の階段を下った所の左側にこの井戸があります。この水は冬よりも夏の方が冷たいと言われています。この井戸は処女マリアに捧げられていて、大聖堂とLadyhillの城にあった教会に聖なる水を提供したという伝説があります。下りきった所にはLossie川に1870年に作られたMarywell橋が架かっています。
    道順通りに歩いたのですが、行き過ぎて橋に着き、渡った先にもそれらしきものは見つかりません。戻って注意深く眺めていたら、壁にプレートがあり、やっと見つけました。その下にあるのがどうやらこの”井戸”らしいのです。しかしどう見ても排水口にしか見えません。友達に写真を見せても”これ、何?”と。聖なる水があったにしては余りにもお粗末でした。
  19. Hangman's Ford
    Mary WellからLossie川を川沿いに東に向かった所にHangman’s Fordがあります。1834年にElginでMorayでの最後の処刑が行われた所です。その処刑以後、絞首刑執行人は地元の人々に刃向かわれ、辛うじてたった一人が逃げ出し、Lossie川のここの浅瀬を渡り、Forresの近くで怪我が元になって死体で発見されました。
    ここには何の案内も立っていなくて、良く分からずに通り過ぎてきました。Lossie川のこの辺りは確かに浅い所が多く、散歩中の犬も入っていました。ただこの犬、気が小さいようで、ご主人が深い所へ木の枝を投げても泳いで取りに行こうとはしていませんでした。夕方、もう一度この辺りに来た時に対岸から眺めましたが、やっぱりはっきりしない所でした。私には町巡りの場所としては入れなくても良いのでは?と思っています。
  20. Holy Trinity Espiscopal Church
    1825-26年に建てられました。新しく建設されたNorth Streetまでの終点を飾っていました。おそらくElginの建築士William Robertsonの作と思われます。
  21. Grant Lodge
    最初は1750年にSeafieldの伯爵がElginに滞在するために建てられ、第6代伯爵Francis Williamによって1世紀後に大きく拡張されました。1902年にSir George Cooperがこの建物がある公園を町に寄贈しました。
    建物の絵は立派でしたが、行ってみると窓はベニヤ板で塞がれて少々がっくり。外観はそのままなのですが、かなり傷んでいるようです。
ガイドには約1時間半で回ることが出来るとありましたが、博物館や大聖堂に入っていたら、そんな時間では回ることが出来ません。私は前日に中に入っていたものの、写真を撮ったり、道を間違えたりしたので、休憩も含めたら3時間くらいかかっていました。
その他
Town Trailのコースにはなかったその他の町の名所をご紹介しておきます。
  1. The Biblical GardenThe Biblical Garden(右写真)
    大聖堂の北側に道を隔ててある庭園です。名前のとおり聖書に関連する人達の像があちこちにあります。花壇も手入れされていて、時期が丁度良かったので花が咲き誇っていました。町の絵葉書にもよく使われています。
  2. Old Mills
    Lossie川の最古の水車です。以前はKings Millsとして知られていた物で、1230年まで王室の手にありましたが、Alexander II世によってPluscardenの修道院へ与えられました。
    Mary Wellへの道(階段)を曲がり損ねた道の先にあったのですが、この手前で間違えたことに気付いて引き返しました。Town Trailを一通り回った後に時間があったので他にないか探した所、ここがあったのです。場所をよく見れば、引き返すちょっと先だったので、悔しかったです。そんなに遠くないので、ついでにLossie川の川沿いのパスを歩いてみました。途中で草ボウボウになって帰りは大きな道を進みました。水車は当然回っていなく、水車小屋もかなり傷んでいて、名所から外された訳が何となく分かりました。説明のプレートはちゃんと残っていました。
  3. Johnston's Textile Mill and Visitor Centre
    町の東外れにあるカシミアの工場及び販売所です。200年以上の歴史を誇るそうです。Visitor's Tourがあるそうなので行ってみたのですが、中止になっていました。仕方なく販売所と展示室を回って、ついでにちょっとした買い物をして出ました。
  4. Cooper Park
    蛇行したLossie川の河畔に作られた公園です。公園内には子供用の遊戯施設やミニゴルフ場、鴨達がいる池、バラ園、鶏小屋などがあります。勿論ベンチも。TrailのNo.21Grant Lodgeはこの公園の中にあります。この公園の他にLossie川の河畔にはElgin City FCのホーム・グラウンドや陸上競技場などもあります。
Burghead
Elginには海がないので、北側の海に面した町の何処かに行ってみようとしました。博物館で知った石-Pictish Stoneが発掘され、ちょっとした遺跡もあるというこのBurgheadへ行くことに。当然のごとく日曜日の交通機関は当てに出来ないので、平日の月曜日を選びました。行きのバスは分かったのですが、帰りが分からないのでツーリスト・インフォメーションでバスの時刻表をもらいました。バス・ステーションにもあったはずなのですが、案内所がテロで一時的ですが閉鎖されていたのです。
Burghead
Burghead town”バーグヘッド”と読みます。”砦のある岬”という意味で、Borgarは古代スカンジナビア語で'fort'(砦)という意味です。砦は880年に作られました。’head(岬)’は古代スカンジナビア語の’headland’を意味するnesの英訳なのでしょう。
この小さな町で最も有名なのが1月11日に行われるthe Burning of the Clavieという行事です。新年を祝うユニークな火のお祭りです。何故1月11日なのでしょうか? 1750年代にはBritain島ではユリウス歴(旧太陽暦)を使っていましたが、新しくグレゴリオ暦が採用されました。この時に11日戻す必要がありました、Burghead以外でです。Burgheadの人達は両方の良い所を取ることにし、新年を2回、つまり1月1日と1月11日にお祝いすることにしました。
このお祭りは大勢の人々が燃えているClavie(棒でいっぱいになった樽のこと)の後に続き、町を回るというものです。Clavieの最終目的地はDoorieの丘(岬の中央にある小高くなっている所)にある古代の砦の城壁です。しっかりと楔で止められ、油を注いで燃やし、まだくすぶっている残り火が集められ、丘から降ろされます。Clavieのかけらを持つことは来る年に良い運をもたらすと言われていて、世界に散らばっていった人達にも送られます。勿論、the Burning of the Clavieは1750年代以前に遡ります。多くの他の火のお祭りのように、その起源は不明です。このお祭りの様子はあちこちのサイトで紹介されていますので、"Clavie"で検索してみて下さい。
Elginからバスで約30分です。平日・土曜日は本数は申し分ないのですが、日曜日は6本しかありません。小さな町なので、何処で降りても大して歩く必要はありません。町は3方を海に囲まれた岬にありますので、南側(Elginから来た方向)に向かわない限り海に出ます。通りは昔に造られたままのようで、殆どが南北に走っています。
Burghead
Burgheadの岬
Burghead Town Trail
現地の説明ボードに町を巡るルートが地図で示してあり、その順に従ってご紹介します。No.1とNo.3の説明ボードは読めない程ボロボロでした。
  1. Burghead Pictish Fort
    Burghead Fort北のピクト人の王国の前世紀にはBurgheadは実際重要な場所でした。おそらくAD400年頃に建てられた初期の砦はピクト人の定住者によって建てられたおおざっぱな木製の柵でした。
    北海に突き出た岬の中央にありました。東側が盛り上がっていましたが、今は刈り込まれた草地になっていました。砦があった所の北側と西側に石が並んでいました。その石は何となく新しいので、どうやら砦があった所を分かり易くするために置かれていただけのようです。広場の中央にピクニック・ベンチが置かれていました。
  2. A Maritime Kingdom by The Moray Firth
    Burgheadはおそらくピクト人艦隊の基地だったのでしょう。軍艦や漁船、商船がこの天然の港を使っていました。市場が時々浜辺に開かれていました。品物が遠くからもたらされていました。St Orlandの石に見られるようなピクトの工芸品はスカンジナビア人の船に似ています。AD681年のOrkneyへのBridei王の襲撃がそのような多くの船によって行われたはずです。
    防護壁の発掘が1960年代にこの近くで行われました。2つの堀が壁を通り抜けていました。壁は大きく、元は幅8m、高さ3mを超えるもので、表面は砂岩で丁寧に覆われていました。樫の厚板が内部に立てられていました。発掘物は、この壁がAD400年頃に作られ、最後に9または10世紀に焼いて破壊されたという証拠を示しています。
    砦の更に先の、岬の突端の所にあります。海からの来襲を見張るにはもってこいの場所で、遠くは対岸に当たるBlack Isle等が見渡せます。このすぐ側にビジター・センターがあります。
  3. Pictish Stone Site
    Burghead砦は牛の絵が描かれている石(bullstone)が発見された唯一のピクト人の砦です。19世紀初頭には30体が発見されましたが、現在はたった6体が残っているだけです。2体がHeadland Trustのビジター・センターに、2体がElgin博物館に、1体がEdinburghの国立博物館に、そしてもう1体はLondonにあります。
    この場所は説明板があるだけで、回りは草ボウボウの所でした。石もないので淋しい感じがします。発掘された石は4体を見てきているのですが(EdinburghとLondonでも見ているかも知れません)。
    このすぐ南側の小高い所がClavieが燃やされる”Doorieの丘”です。訪れた時はClavieとこの丘が結びついていなかったので、この頂上に楔が刺さっていたことを見ていたにもかかわらず、通り過ぎてきました。ビジター・センターの屋上からじっくり眺めていたのですけどねぇ…
  4. Grand Timber-Laced Defensive Walls
    海の端は中が切れ目のない厚みのある空積み工事で作られた壁で防御されていました。壁の中は鉄製のクギで繋がれた木製の枠でできていました。砦の端は北側の海岸まであり、今は草に覆われている大きな塚として残っています。
    19世紀の発掘では厚さ8m、高さ6m、大きな玉石でできた壁があったとされています。外側に面した多くの石は彫刻が施されていました。壁は樫の木の丸太が0.9m程その幅に、外でなく中に、並べてありました。樫の厚板が長さ20cmの鉄の大クギを使ってこれらの丸太に直角に固定されていました。そしてこの木枠は瓦礫で間を埋められていました。砦の上部はおそらく城として機能し、王や付き添いの宿泊設備、宴会用の大ホール、年貢や税金を置いておく建物があったのでしょう。下の方には身分の低い従者、貯蔵庫や食料庫に使われていたようです。
    シーザーはBC52年の戦争中にFranceで似たような壁のことを書いています。しかし、この独特の建築様式はクギを使うことを含めて、ピクトの地で再発明されたと言われています。厚みのある壁の建設は天然資源と人力の両方の支配が必要でした。角材、石、おそらく鉄さえ、Moray地方一帯から得られていたのでしょう。Portknockie(Burgheadの東約40kmの海岸の村)のピクトの壁の発掘では同じ様に、クギはありませんでしたが、角材と石で繋げられたものが見つかりました。
    説明板に壁のイラストがありましたが、重厚な感じでした。壁に守られていた低地は今も広場になっていますが、見た時は野焼きをしたような焦げ跡が大きなブチを作っていました。町に着いた時、この横の道に消防車が来ていましたが、この野焼きと関係あるのでしょうか? 近くの家が燃えていたようにも見えませんでした。
  5. Burghead Well
    Burghead WellBurgheadの井戸は異教徒の池、それともキリスト教の洗礼場、あるいはその両方なのでしょうか? この井戸は、おそらく防御壁からのものだと思われますが、たくさんの崩れ落ちた瓦礫が200年前くらいにきれいに払い除けられた時、発見されました。
    この井戸は、砦の東の端にあり、伝統的な儀式が行われていたにもかかわらず、単に砦の居住者に水を提供していただけでした。水に関して言えば、初期の宗教では非常に重要でした。井戸や泉、そのようなものはしばしば礼拝のための場所であり、この井戸で見つかった頭が掘られたケルトの石はそのような習慣を表しています。歴史資料ではピクト人の間での処刑の伝統的な方法が描かれています。Athollの王の息子TalorganはAD739年にこのような方法で処刑されています。
    キリスト教はこのような異教徒の行動に不快を示しましたが、度々伝統的な聖地が新しい目的の為に改装されています。Columba自身はキリスト教で使うために井戸を神聖なものとしたと伝えられています。おそらくBurgheadの井戸も後に洗礼のために使われたのでしょう。
    20段の石段を下りると、小さな部屋があります。部屋は角が丸くなっていて、広さ5×5m、高さ4mです。中央には水溜まりがあり、回りの全ての壁に狭い幅0.9mの棚があります。水溜まりは深さ1.3mで、地下水が溜まっています。一度行われた実験では、水は6日で一杯になりました。
    地図を見ながら進むと、そこには壁があるだけでしたが、矢印の案内があったのでそちらに進みました。”コの字”に曲がったその先に入口が見つかりました。壁で囲まれているのです。しかしドアには鍵が掛かっていて入ることが出来ません。横の壁に鍵を貸してくれる所の地図が貼ってありました。行ってみると、普通の家。住所も間違っていないし…取り敢えず聞いてみようとすると、玄関に女性が出てきました。”井戸でしょう?”と。そして、鍵と説明書を貸してくれました。帰りで良いから、記帳するように言われました。
    鍵を開けて入ると目の前に立派な井戸がありました。前の日のMary Wellでがっくりきていたので、この井戸を見た時は嬉しくなってきました。ずっと一人で、思う存分この井戸を眺め回しました。
  6. St.Aethan's An Early Christian Chapel
    7世紀にここに初期のキリスト教の教会が建てられました。IrelandのSt Áedán(Aidan)に捧げられたものです。Roy将軍の1793年の計画では墓地が砦の上部に導かれる通路の左側で、現在は破壊されてしまった3重になった土塁の中と外の間に、描かれていました。
    教会の土台は19世紀の初めにはこの墓地で見られましたが、その石は町の南の水車小屋を作るために使われました。Burgheadでのキリスト教の初期ではこの場所が高く望まれていたことを反映していて、この地域のピクト人の貴族がキリスト教の儀礼の実施を是認することに重要な役割をしていたとされています。墓地の位置は、作られた時には城壁は防御用としては大して重要でなくなってきていましたが、 埋葬の境界を優先することを反映していたことを表しています。墓地から切り出された石には”走っている鹿を追いかける2匹の大きな犬”を描いているかけらも含まれていました。
    他に、切り出された石には十字架の石板のかけら-最も重要なキリスト教を象徴を刻まれた石がありました。
    地図通りに行ったはずなのに港に出てしまい、それらしきものが見つかりません。おかしいな…と思いつつ、ビジター・センターに戻ろうとしたところ、1つ隣の通りで見つけました。教会と思っていたら、墓地でした。その奥に説明板があったので間違いありません。
  • 番外編;Burghead Visitor Centre
    岬の北の端に建っている白くて丸い建物です(Burghead砦の写真の左側の建物の内の一番右の白いもの)。ピクト時代から現在までのBurgheadの歴史を展示しています。4-9月の毎日12-16時の開館。無料。
    最初、裏側から近づいたので、この建物は?と思っていました。表に回った所で、このセンターということが分かりました。そんなに大きな建物ではなく、部屋も一部屋だけです。その2/3程にBurgheadのピクト時代の模型や発掘された石、壁にはthe Burning of the Clavieの写真(説明書きに”Burgheadには新年が2回ある!”とありました)が凝縮された形で展示されています。残りのエリアはちょっとした記念品の売り場です。そして、屋上(と言っても2階の高さですが)に上がって、360°のパノラマを楽しんできました。真ん中には船のマストをイメージしているのか、ポールが立っていました。ベンチもあるので休憩できます。この日は快晴で、翌々日に行こうと思っているBlack IsleやHighlandの東海岸が良く見えていました。他の訪問客や係のおばさんがちょっとの間上がってきましたが、殆ど独り占めでした。
Burghead Beach
Trailはビジター・センターを含めて3時間半くらいで終わりました。そんなに時間が掛かるとは思っていなかったので、午後はElginへ一旦戻って他の町へ行ってみようと思っていたのですが、あまりにお天気が良くて、近くの砂浜の海岸が気持ちよさそうだったのでこの町に夕方までいることにしました。快晴の上に気温も高くなっていたようで、子供は勿論大人(+犬)も泳いだり、海に足を浸けたりしていたくらい暑かったのです。濡れると危険なカメラがなかったら私も海に入ったかも知れません。
ビジター・センターからすぐに砂浜へ向かわずに、一旦港へ回りました。下の写真はその港から見た砂浜の写真です。この時は満潮が近づいていたので、砂浜は狭くなりつつありました。午前中はかなり広くなっていました。写真の左端のあたりにキャンプ・サイトがあります。
そして砂浜の上でレインコートをシートにして休憩。その後西の方へ砂浜を歩いていきましたが、何処まで行っても同じだったので適当な所で引き上げてきました。砂浜はFindhorn湾の湾口で一旦切れますが、約20km先まで続いているようです。このScotlandらしくないお天気で、また日焼けをしました。
Burghead beach

  1. Aberdeen and Grampian Highlands(英語、ドイツ語、ノルウェイ語、フランス語):Aberdeenと Grampian地方に関するVisit Scotlandのページです。
  2. Elgin(英語):Elginの町の情報です。
  3. Undiscovered Scotland - Elgin Cathedral(英語):Elgin大聖堂に関するページです。
  4. Burghead Headland Trust(英語):Burgheadに関するページです。