左:1964-1-4:高浜桟橋:岸壁に港務所(「関西汽船」のネオンサインがある建物)がある。
その右背後に、伊予鉄道・高浜駅の屋根が見える。
その後、高浜港は、利用客の増加により狭隘となったので、約600m北(左)に、新港が計画され、
1967-3-21に、松山観光港が供用を開始した。
但し、鉄道は延伸されず、高浜〜松山観光港は、バス連絡となった。
右:1967-8-22:完成後まもない、松山観光港ビルである。広場は非舗装である。
(後の2001年に、新ビルが建設された。)
松山の海の玄関だった三津港は、遠浅のため大型船の接岸が不能(艀が必要)、西風が強く風波の影響が大きい、等の欠点があった。
それで、水深が深く、前面の興居島(ごごしま)が天然の防波堤となる、良港の高浜港が修築された。
(これに反発した三津町民は、高浜港開港を推進した伊予鉄に対抗して、松山電気軌道を開業させた。
しかし、松電は、結局、伊予鉄との競争に敗れて、合併された。)
1888-10-28 三津―松山6.6km開業(762mm軌間、蒸気機関車使用)=四国最初の鉄道
(参考:開業時、三津―松山は、所要28分、運賃は3銭5厘だった。)
1892-5-1 高浜―三津2.8km開業
1895-4 文豪・夏目漱石(1867〜1916)は、愛媛県立尋常中学校の英語教師として、松山に来た。
小説「坊ちゃん」に次の描写がある。(船を下りて汽車に乗る場面)
停車場はすぐ知れた。切符も譯なく買った。乘り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分許り動いたら、
もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三錢である。
1931-5-1 高浜―松山市 改軌(1067mm)、電化
1960〜1970年代の 伊予鉄道・郊外線
The sceneries along Matsuyama suburban lines
of Iyo Railway Co. mainly in 1960's and 1970's
高浜線 Takahama Line
1973-8-26:高浜
進入する松山市発高浜行き3連
(モハ102+クハ402+モハニ202)。
折り返し、松山市行きになる。
先頭車はモハ102である。
モハ102は、1931年の高浜線電化時に入線した。
日本車輌製造である。(後の1984年に廃車)
高浜線電化に際しては、国内では例を見ない大型電車(幅2.7m以上、長さ17m以上) の
導入を計画したが、その間に、大軌、參急、南海に20m車が登場してしまった。
それで、中都市郊外用電車という事で、幅2.7m、長さ16.2mの車両を導入した。
この電車には、MGが無く、室内灯は、白熱電球の直列接続だった。
だから、起動時の電圧降下の影響が、そのまま照度に表れた。
これは、1959-11-3に購入した絵葉書(8枚1組が\60でした)。
弁天山から、三津、梅津寺方面を見たものである。(上の写真と逆向き)
手前の工場は、丸善石油(今はコスモ松山石油)である。松並木の向こうでは埋立て工事中である。
左で松山港の防波堤が建設中である。
右に三津からの新道(当時のことだから勿論、非舗装)が完成している。
それに右斜めから合流している道が旧道である。
今は、合流部のこちら側、右に、アイテム愛媛(FAZ国際交流施設)がある。
梅
津
寺
三
津
伊予小富士
興居島(ごごしま)
21世紀の梅津寺 (寄贈写真)
左:1960-8-17:古町駅北方/古町北踏切から北向き
電車は、松山市行き2連(モハ601+モハ602)である。モハ600系は、1958年入線の全金属車である。
1971年に、長野電鉄から購入した車両をモハ603として組み入れ、3連となった。
右には城北線(単線)がある。
昔は、この辺りで、松山電気軌道が伊予鉄道を跨ぎ越していた。(下の写真)
後に、高浜線は、この先から衣山駅手前までが高架化された。→1995-7-18複線分の高架化完成。
右:2004-3-21:古町車庫に留置されているモハ602+モハ601(廃車)。
モハ600系は、1995年、610系の入線に伴い、廃車となった。
古町では、高浜線と城北線とが、平面交差している。
また、鉄道線車庫、軌道線車庫、及び古町工場がある。
平面交差
乗り場区分
1番線 城北線松山駅前行き(10分毎)
2番線 城北線道後温泉行き(10分毎)
3番線 高浜線松山市行き(20分毎)
4番線 高浜線高浜行き(20分毎)
5番線 高浜線古町止め
(1956年迄は貨物列車待避線)
古町工場
軌道線車庫
地下道
駅舎
(出札、集改札)
4
3
2
1
5
高浜線 単線
城北線 単線
城
北
線
単
線
高
浜
線
複
線
1963-4-14に描写した
古町駅
21世紀の古町-2 (寄贈写真)
21世紀の古町-1
左:2005-4-26:古町駅の「移動円滑化」改造(所謂 barrier free化)(2005-3-22完成)
手前の複線が高浜線、向こうの複線(構内だけ)が城北線である。更にその向こうに、駅舎がある。
従来は、駅舎〜高浜線乗り場は、地下道経由だったが、それが踏切経由に変更された。
これは、「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(2000年施行)にそった改造である。
立体交差から平面交差への変更は、技術的退歩とも云えるが、運行頻度、利用者数、費用などを考えると、古町駅では、これが最も現実的な解だろう。
右:2005-4-26:古町駅
高浜線上り線プラットフォームから、大手町方向を見たもの。
1962年、1976年と比べると、上屋の弥次郎兵衛型への変更、待合室の撤去により、見通しがよくなった。(2005-3-22完成)
プラットフォームの向こうに、改造工事で出来た構内踏切が見える。
左の高浜線下り線プラットフォームの向こうに、城北線の電車が見えるが、撮影者Shi-Mamutaさんによると、
これは、1系統(木屋町回り)モハ72である。こちらに進んでいる事になる。
尚、伊予鉄道は、松山市駅の改良などについて、平成16年度バリアフリー化功労者表彰・内閣官房長官賞を受賞している。