恋愛小説

(2)


 その口付けは、始まりと同じく唐突に終わった。
 だんっ。
 つきとばす様に離れた火村にアリスは驚く。
 そんなアリスに先刻までのキスと同じくらい、冷たい一瞥を向け火村は立ち上がった。
「早く…ここを出た方がいいな…いつ、あいつが戻ってくるかわからん」
 足早に動き出す背中がぼんやりと見える。
 でも、動けない。
 ついて行っていいのかどうか、わからない。
 その後ろ姿はとても遠くて。
 思わずアリスはがくりと肩を落とした。

───今、ここにいたのに…。
 唇に触れてみる。
 火村が触れていたものに。
 それは濡れて…。いつのまにか熱くて…。その存在をまだ残したように感じている。
 自らの指でなぞってなお、びくりと震えるほどに。
───火村っ!
 
 
「どうした? こないのか?」
 アリスの心の叫びが聞こえたように、火村は振り向いたようだ。
 つかつか…。近づく足跡。
「アリス…」
 頭上に聞こえた声が、顔を上げろと促している。
 でも、ぶるぶると頭を振るだけのアリスに火村は深く溜息をつくと、同じ目線になるようにしゃがみこんだ。
「ここに残りたいのか?…あいつの帰りを待っていたい?」
 まさか、まさか、まさかっ!
 尚も激しく頭を揺らすアリスの肩に置かれた手。
「じゃあ、俺と来い!」
 低いながらも強い断言を受けて、アリスは弾かれたように顔を上げる。
 どんなに近くで見ても鼻梁の通った整った火村の顔。それは紛れもなくさっきのおぞましい接触に追い詰められた時、思い浮かんだ顔だった。
 今は眉間に皺を寄せ怖い程のその顔が、どんなにやさしく微笑むか…自分は知っている。
 いや、知っていたはずなのだ。もっともっと…色々な表情を。
 失われた時間の中で。
 きっと…。
「俺と…来るな」
 念を押されて、ようやくこくんとアリスはうなづいた。

 押し込めるように乗せられた助手席で、アリスはそっと横を見る。
 あの目覚めた時に、ぼんやり見えた白い天井。
 そして飛び込んできたこの男の笑顔。
『気づいたのか…よかった』
 強く強く抱きしめられた腕。擦れた声が震えているのは泣いているのだとわかったけれど、ふとその力が緩んだ瞬間にアリスは困惑したように尋ねたのだ。
『ここは、どこ?』
『病院だ』
『びょういん?』
『あぁ。お前、交通事故で...』
『事故? じゃあ、あなたはドクター?』
 その瞬間、火村は愕然とした顔をした。
『何、言ってんだアリス? 俺だろ?』
『俺って? 何で君、俺のこと知ってるん?』
 わからなかった。
 親しげにアリスと呼ぶその声はどこか懐かしかったけれど。何も思い出せない目の前の存在。
 愕然としたようにその腕が解かれて、その男は立ち上がり『ドクターを呼んでくる』と出ていったきり、二度とその部屋で姿を見ることはなかった。
 男が火村英生と云う名で、大学で親友だったらしいということは後で病院で教えてもらった。
 眠り続けている間、足しげく通ってくれていたらしい。
 でも、全く覚えの無い人物。
 見事なまでに記憶が飛んでいた。
 思い出せたのは、大学に入学した当時の事まで。それ以降のことは、まるっきりの白紙。
 医者が言うには、その位は当然といわれるほどの交通事故だったそうだ。植物人間になるのではないかとさえ言われていたアリスが目を覚ました事のだけでも奇跡だと。
 退院する段になって知らされたのだが、運転席と助手席に同乗していた両親は即死。アリス一人がかろうじて生き残り、そして眠り続けた一年と半近く。その間に同窓生たちはもう社会へと巣立っていた。
 あの日以来。半年のリハビリを経て、アリスは大学に復帰した。習得していた単位がそのまま有効だったので、三回生の半ばから。
 そして、更に2ヶ月が過ぎ今に至っている。
 季節はもう春。
 三年遅れでやってきた大学生活最後の年。この時期の事故だったと聞く。先日両親の墓参りを済ませてきたところだ。
その墓すらも、誰がどうやって両親を弔ってくれたのか…自分にはわかってない。両親は一人っ子同士だったし両家の祖父母とももう亡くなっていたから。
『代理とおっしゃる方だったと思いますけど、はっきりとは…』
 尋ねた自分に気の毒そうに住職の奥さんは告げた。
 病院でもそうだ。自分が払った入院費は意識が戻ってからのもの…。
『もう頂いてますから』
 そんな言葉で片付けられた。
 唯一、知っている可能性があるとすれば…この男しかいない…。
 自分を訪ねて来てくれていたという、この『親友』火村英生という人物なら色々と知っているのではないかと思う。でも、聞けないでいた。聞きそびれたというのか…聞くのが怖かったのか…何でだか自分でも理由は未だにわからないままなのだが。

 色々と世話になったと聞き、礼を言いたくて尋ねた英都大学。
 火村は学校に残り大学院生になっていた。
『当然のことをしたまでだから…親友として』
 お礼の印にと差出した菓子折りに目も向けず、あの日とは全く違う醒めた声で告げられた。反応があったのは『火村さんには色々とお世話になって…』と告げた時の即座の否定。
『火村だ』
『え?』
『同級生だ。今は違っても。火村でいい。さんなんてつけるな。他人行儀な……』
 煙とともに吐き出すように言った時のあの瞳が、今もまだ鮮明に浮かぶ。
 何か苦しそうな、傷ついたような、切ない瞳。
 
 あれから。
 構内で姿を見かけるたびに気になった。
 ぎこちなくその姿を目で追った。
 火村は見かければ声をかけてくれた。
『調子はどうだ?』
『困ったことはないか?』
 おそらく、かって親友だったときと変わらぬよう接する努力をしてくれたのだろう。自分をものの見事に忘れ去っていた相手に対して色々と迷ったあげく。変わらずにいようとしてくれたのだと思う。
 でも、アリスはどう接していいのかわからなかった。いや、わからなくなっていった。
 思い出そうとしても何一つ浮かばない。むしろ、霞んだ記憶に頭が締め付けられるようで苦しくなる。そんな中で、優しくされればされるほど焦る。思い出せない事が悪い気がして。罪悪感めいたものを感じてしまう。だから、たまに食堂や図書館で傍にいてもどうしていいかわからなくて。言葉が出なくて、自分からは何も言えない。話しかけてもらっても言葉が返せない。そんな悪循環に…いつしかアリスは火村のことを避けていった。その視線を痛いほど感じながら。そして、自分も同じぐらい追いかけながら。そうするしかないような気がして…。

 なのに、今日だ。
 どうして、あのタイミングで火村は来てくれたんだろう。 
 偶然にしては出来すぎだと思うほどのタイミングで火村は飛び込んで来てくれた。
 見守ってくれていた?
 そんな風に思うのは自分の思いあがりだろうか…。
 でも、ずっと感じている。
 暖かい視線の主は、他に思い当たらない。
 優しくて、穏やかで…どこか切なさを含んだ視線はきっと…火村なんだと思う。
 不思議な確信があった。
 最初は気づかなかったけど、今はわかる。
 火村の視線は暖かい。

 ちらちらと走らせる視線に火村は気づいたらしい。
「どうした? 何かついてるか?」
「え?」
 ううんと首を振り、アリスは困ったように顔を伏せてしまった。
 ぎこちない。
 どうして自分はこの男の前では言葉を失ってしまうのだろう…。
 あの視線に捕らえられるとどうしていいかわからなくなる。
 切なそうな目が痛くて。
 悲しそうな視線が胸に突き刺さって。

「もう、着くぞ」と促され顔を上げた。
 銀閣寺の近くだと、ぼーっと窓の外を見つめてアリスは思った。遠い昔、中学校の遠足で来たことがある。
…でも。なんだろう、この既視感。
 メインストリートから狭い道に入り二度三度と曲がって、車は止まる。
「…俺の下宿だ」
 がらがらと開けられたドア...。
 なんだか懐かしい感情に襲われて、アリスは戸惑う。

 何やろう…?
 俺は、ここを知ってる?
 メインストリートだけじゃない。こんな路地も通ったことがあるような気がする、この感覚は…何?

 記憶の波が揺れ始めていた。



                       
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