恋愛小説

(3)


 「火村…」
 暗闇の中。だんだんと慣れてきた目にうつる規則正しく寝息を打つ背中に唇で呟やいてみる。
 今ならこうして名前を呼ぶこともできるのに…。
 溜息が零れる。
 あの日以来の接触。
 火村が抱きしめたこの身。
 そればかりか、この唇にも跡を残して。
 でも、嫌じゃなかった。
 いや、それどころか。
 秋田に触れられた時はおぞましさに総毛だった身が、安堵感に包まれた。
 まるで当たり前のように。
 そこは居心地がよかった。
「何でやろう」
 そっと我が身を抱きしめてみる。あの腕の温かさが甦ってほっとしてしまう。

 ここもそう。
 火村の過ごす下宿。ぐるりと見回してみる。暗闇の中でもわかる居心地の良さ。
 古い木造の家の持つ懐かしさなのか、いや、そればかりではないはずだ。
 かって親友だったという自分はきっとここに来ていたのだろう。

 どんな風に過ごしたのだろう。その頃の自分は。
 思い出したい。
 でも、思い出せない。
「…なんで…」
 悔しさに噛み締める唇。
 しょっぱい…そう思った瞬間、声がした。

「どうした? 眠れないのか?」
 ゆらりと火村が身を起こした。
「え、あの…」
 慌ててごしごしと涙を拭う。
 この闇だ。気づかれてはいないだろうが…。
「…やっぱり俺、下に居るな」
 溜息まじりの声。
 先刻の有無を言わさずに布団を並べた強引さとは別人のような火村がそこにいる。
「え…」
 違うのに。
「ゆっくり休めよ」
 がさっ、布団を抱えて立ち上がる火村が足早に扉へ向かう。
 引き止めたい。
 傍にいて欲しい。

 ぐいっ、掴んだのは、布団の端。
「え?」
 唐突な動きに火村は動きを止める。
「どうした?」
「いて」
 言葉が出た。
「ここに、いて」


                       
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